福田和子(逃亡15年)松山ホステス殺人事件
福田 和子(ふくだ かずこ、1948年1月2日 - 2005年3月10日)は、大分県出身の元服役囚
強盗罪で服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕されていた郷田会の囚人が看守を買収し、囚人女性を強姦するといういわゆる松山刑務所事件が起こる。福田はこの事件で被害者となった。この刑務所内強姦事件は国会にも取り上げられる大スキャンダルとなり、看守はこのスキャンダルで自殺している。
その後キャバレーのホステスとして1982年、松山市内で福田の同僚だったホステス(当時31歳)の首を絞めて殺害、当時の夫などの依頼で家財道具などを持ち逃げし、ホステスの遺体を遺棄する、いわゆる松山ホステス殺害事件が発生した。
その後福田は幾度となく偽名を使ったり、美容整形を繰り返すなどして全国のキャバレーを転々とする生活を始める。愛媛県警察本部が懸賞金をかけた捜査を行い、やがて時効の近づいた1997年7月29日、福井市内で逮捕された。四国まで鉄道で移送され、松山拘置所に拘置された。松山市までの道中は捜査員と福田が乗車した特急サンダーバードや新幹線などにマスコミ関係者が同乗し、福田の周囲を取り囲むなど大騒ぎとなった。逮捕のきっかけは時効が近づき大々的にワイドショーなどで報道されたために社会的関心が高まったことにあった。
1999年5月31日、松山地裁にて無期懲役の判決が下され控訴するも、2000年12月13日、高松高裁にて控訴棄却。松山拘置所から高松刑務所に移され、収監。福田は最高裁へ上告したが2003年11月、上告棄却。無期懲役の刑が確定し、和歌山県和歌山市の和歌山刑務所に収監される。
2005年2月、病気で倒れ、3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞のため死去。享年58(満57歳没)
福田和子15年間の逃亡生活
時効までの15年近く日本各地を転々としていた福田だが、潜伏生活の中で最も大胆だったのは石川県根上町の和菓子屋の後妻(婚姻せず。事実上の内縁関係)の座に納まっていたことである。金沢市のスナックで働いていた福田はその店の客だった和菓子屋の主人に見初められて同棲するようになり、店も手伝うようになる。福田は非常によく働き接客も得意だったことから店は忽ち評判となり、新しく改装するほどの繁盛店となった。和菓子屋の主人は福田を大層気に入り、正式に結婚を申し込むが、福田は正体の判明を懼れ結婚を渋る。
余りに結婚を渋る福田の態度に不審を抱いた親戚が警察に通報、警察は福田の逮捕に向かう。しかし当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知、咄嗟の判断で近くにあった自転車に乗り逃走。逮捕は失敗する。このとき警察は福田が整形手術を行っていた事実を初めて知り、当時の週刊誌でも取り上げられた。
その後も捜査網を巧みに潜り抜け逃亡を続けるが、1997年福井市内に潜伏中、行きつけのおでん屋のママと常連客の通報が切掛けとなり、逮捕。逮捕成功に繋がった情報の提供者に懸賞金が支払われた。
懸賞金は慈善団体に寄付が為され、また逮捕現場となったおでん屋は区画整理により取り壊され現存していない。

松山ホステス殺害事件
松山ホステス殺害事件(まつやまほすてすさつがいじけん)とは、1982年8月19日に愛媛県松山市でホステス(当時31歳)が、犯人で被害者と同僚のホステスであった福田和子に殺害され、家財一式が奪われたうえに遺体が遺棄された強盗殺人及び死体遺棄事件である。この事件で注目されたのが犯人が整形手術を受けたうえで当時の殺人罪の公訴時効である15年(現在は25年)直前まで逮捕されず逃亡したことであり、マスコミ報道を見た市民による通報で逮捕されると言う劇的な幕切れを迎えたことである。■時効直前:1982年に犯行後、福田和子は東京へ向かい整形手術をしたため、人相が変わり捜査機関からの追求をかわしていた。その後金沢で生活していることが判明したが、捜査が及ぶ直前に逃亡した。公訴時効成立を直前に迎えた1996年に愛媛県警松山東警察署は逮捕につながる情報を提供した者に対して100万円の報奨金を支払うとしたうえに、また時効直前には女性を整形した病院も400万円の報奨金を出すとして、俄然マスコミの報道が加熱していた。そうしたなか福井県福井市の飲食店がなじみの客が手配者に類似しているとの通報があり、指紋が一致したために1997年7月29日に逮捕された。その後彼女は15年ぶりに松山市に身柄を送致され公訴時効成立まで11時間前に起訴された。