関行男 神風特別攻撃隊

sinpu-seki07関大尉は敷島隊の隊長として神風特別攻撃隊の先駆けとなった。初めての特攻隊の指揮官はぜひ海軍兵学校出をということに添った人選であった。関大尉の苦悩する姿が記録に残っている。

神風特別攻撃隊の誕生(玉井副長と関大尉の会話より)

やがてコトリコトリとしずかな足取りが降りてきて、長身の関大尉の姿が士官室にあらわれた。急いだのだろう、カーキ色の第三種軍装を引っかけている。玉井副長に近寄って、

「およびですか?」

と聞いた。玉井副長はすぐそばの椅子をかれにすすめ、もの音の絶えた夜気の静けさのなかに、われわれはむかいあった。

 玉井副長は、隣にすわった関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、

「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだったのだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」

 と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。−−−−1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・・・・・・

と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

「ぜひ、私にやらせてください」

すこしのよどみもない明瞭な口調であった。

玉井中佐も、ただ一言、

「そうか!」と答えて、じっと関大尉の顔を見つめた。

関 行男 略歴

sinpu-seki04関 行男(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機パイロット。愛媛県西条市出身。最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に2階級特進)。海軍兵学校70期。 なお、関大尉の名前の読みは「つらお」であると五〇一空所属搭乗員だった小澤考公氏の証言がある。氏によると、セブ基地において関大尉から「俺の名前の行(つら)は、楠正行(まさつら)の一字を取って、国に奉公するようにとつけられた」と語られたそうである。

レイテ沖海戦 関 行男

レイテ沖海戦において、神風特別攻撃隊・敷島隊隊長として指揮し、自らもアメリカ艦船に突入し戦死した。死後は軍神として畏敬の対象とされた。

旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)、海軍兵学校卒業。なお特攻隊の戦死者第1号は大和隊隊長・久納好孚中尉(法政大学出身)である。ただ戦果が不明であることと「海兵出身者を特攻第1号に」との上層部の意向で、関が特攻第1号として公表された。

第二次世界大戦中の1944年10月、フィリピン周辺海域で行われていたレイテ沖海戦において、日本軍は苦戦していた。直前に生起した台湾沖航空戦において大打撃を受けた在フィリピン日本海軍航空部隊は行動可能な航空機が零戦僅か30機という事態に陥るに至り、突入してくる日本海軍水上部隊の上空掩護は不可能になっていた。着任したばかりの第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は「特別攻撃隊」の編成を発令。特別攻撃隊は、爆弾を積んだ航空機により体当たり攻撃を行うもので、生還は不可能であった。

そのレイテ沖海戦で編成された最初の特攻隊が、関行男大尉を隊長とする「敷島隊」と、同時に出撃した「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」、爆装した零戦合計24機である。各隊の名称は本居宣長の古歌より命名された。特攻第1号といわれる関大尉は元々艦爆のパイロットで、零戦は乗りなれた機体ではなかった。しかし戦局が押し迫り艦爆の活躍の場がなくなったため戦闘201航空隊の分隊長として赴任してきたばかりだった。当初、菅野直大尉が候補に挙がっていたが、内地へ一時帰還中だった為、関大尉に決定したと言われている。

深夜、大西中将や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関大尉は、頭を抱えて考え込んだという。彼は結婚したばかりで妻も年老いた母もいたため、即答を避けて一晩悩んだ末、翌日になってようやく応諾した。
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