第一神風特別攻撃隊 敷島隊 関行男

sentoro seki gunsin(写真は、敷島隊の攻撃を受けて炎上する米空母セント・ロー)

関行男の知られざる境遇

「お母さん、何で僕の性が関で母さんの性は小野なの」行男は息せききって帰宅し、母のサカエに問いただした。学校で担任の教師に聞かれたのだという。サカエは窮した。サカエが二歳のとき、貧農の父親は農閑期に樵(きこり)の手伝いで山に入った折に鉄砲水に押し流されて、遺体も行方不明になった。数日後に探しに行った親戚の者に伐採(ばっさい)道具が発見され、事故を知るという無残な最期であったという。享年二三歳!

 そのため一人娘であったサカエを置いて母親が実家に帰り、サカエは親戚小野伊勢八宅に養女として引き取られた。小学校には数日間通っただけで、子守り奉公に出される。赤ん坊をおぶって学校の廊下で授業を立ち聞きし、サカエは文字を覚えた。仕事の合間に独学し、たいていの本は読みこなせるようになる。奉公先の素封家夫人がサカエの働きぶりと色白で美しい容姿を愛し、家事から礼儀作法、着物の着付けまで教えた。

 夫人が死亡したのち、その遠縁の家に奉公換えしたところへ客として訪れたのが、行男の父となる関 勝太郎である。勝太郎は、挙措が作法にかない、やさしい笑みを浮かべるサカエに魅せられ、自分は離婚しているのだと言ってサカエに承諾を求め、二人は所帯を持った。勝太郎四〇才、サカエ二二歳であった。大正一〇年(一九二一年)八月二九日、愛媛県新居郡大町村大字大町一六八六番地、現在の西条市栄町に大きな男の子が生まれ、行男と名づけられた。

   大阪を仕事場とする勝太郎には、サカエと行男が待つ愛媛県西条市栄町で暮らす日は少なかったようである。やがてサカエは勝太郎に妻と三男一女のいることを知る。だまされたと歯ぎしりしたが行男が不憫で、行男を関の戸籍に入れさせた。行男五歳のときである。行男が昭和九年春、西条中学に入る直前、勝次郎は病弱な妻と離婚してサカエを入籍した。「忠烈万世に燦たり」と、最高の賛辞を贈られた。神風特別攻撃隊敷島隊。その隊長関行男大尉が、幼少期を不幸な境遇のうちに過ごした事実は意外に知られていない。

関行男 生粋の軍人タイプ

行男は西条市の大町小学校を主席で卒業。東伊予の新学校、西条中学に二番の成績で入学する。感じやすい神経を持ち、父親と折り合わない。父親にあごで使われる母親が気の毒でならないのだ。一年の期末試験の勉強中、勝太郎が行男を呼んだ。返事をしない。怒った勝太郎は行男を殴り、防火用水に頭を押し込む。隣の主人が止めに入り、勝太郎はやっと手を放した。行男はずぶぬれの顔を引きつらせて、父親を睨みつけていた。このころ西条中学では一、二番が一高を、続くトップクラスが岡山の六高や熊本の五高をとナンバースクールをめざした。行男は一高を志していたが、日華事変に入って父親の骨董の目利の仕事に陰りが出ていた。

 勝太郎は子供運が悪く、先妻との間に生まれたは四人は病気と交通事故で、みんな他界していた。ただ一人残った行男には、高等師範学校に進み、教師になって平穏に暮らすことを望んでいたのだが、行男は承服できなかったのである。一高がだめなら、同じ程度に難関の海軍兵学校を熱望したのだった。「今の戦争が長引きゃそれだけ命を危険にさらすことになるぞ」「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に、事なかれ主義の、なまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ」突っ張り合う二人の間で、サカエはおろおろするばかりであったという。

 行男は文才があり、みずみずしい感受性を込めた作文をのこしている。数学でも賞をたびたびもらった。庭球部(テニス)の主将として初戦敗退ではあったが、全国大会にも出場、身長は一七〇センチを超える偉丈夫である。ようようたる未来に向かって大きく羽ばたこうとしていた。もはや父親の腕力は通用しない。老いが近ずき、もち病の喘息も重くなっていた父親は、サカエにぼやいた。「あいつはわしらにはできすぎとる。もっとぼんくらなら御しやすかったろうになあ」まさか勝太郎は最後の子、行男までもが未曾有の戦争でそれも特別に編成された攻撃隊の隊長として戦死するとは夢にも思わなかったであろう。こんな勝太郎が他界したのは関が兵学校一号生徒になる直前の、昭和一六年春のことであった。

  たしかに親としてみればぼんくらでもいいと思うのもわからなくは無い。結局、第一神風特別攻撃隊隊長として戦死していくのであるが、これも筋書きができていたようなものである。どうしても海兵出の隊長で第一号の特攻を決めたかった上層部に書かれた筋書きのレールに乗せられてしまったとしか思えない。同隊には後に本土で開隊され源田実大佐指揮の松山基地、剣部隊三四三航空隊で本土防空に活躍した菅野直大尉がいたが、彼はこの時期フィリピンから本土へ飛行機のテストと受領に来ていたため関 行男大尉が選ばれたように成ってはいるが、事実は疑わしい。最初から菅野大尉は温存のために本土に帰したとも思われるのであるが、あくまでもこれは私の推測の域を脱しないのだが。 光人社発刊の、神風特攻隊「ゼロ号」の男、海軍中尉久能好孚の生涯、大野芳・著や日本出版合同・神風特別攻撃隊・猪口力平、中島正共同著に詳しく紹介されている。

 昭和一三年(一九三八年)一二月、兵学校に入学した。兵学校生活の最初の関門に姓名申告がある。最上級生の一号学生の前で、新入生は出身校名と姓名を名乗るのだが「声が小さい」「聞こえん」と何度もやり直しさせられる。おじけづく新入生の中にあって、関は炯々(けいけい)たる眼光で一号の視線を見返した。関が一号生徒になったとき、所属の第二分隊の伍長、江本義男と親しくなる。関は江本に中学校時代のスナップ写真を贈り、「おれは母一人子一人で育ったが、頑張って人にぬきんでて軍人になった」と語っている。江本によれば「関は剛毅な性格で、常に下級生の模範となろうと努め、訓練によく耐えていたと、江本義男伍長は関 大尉を回想する。

 生粋の軍人タイプだった七〇期が一号のとき、理研科学映画会社が製作した記録映画「勝利の基礎ー海軍兵学校」に、水雷術の講義の場面がある。真剣に黒板を見つめ、せっせとノートに書き込んでいる関の顔が大きく映し出される。「精悍なうちにも、どこか哀愁を帯びた彼の表情がカメラマンの目に止まったのだろう」と、同期の武田光雄は見ている。関は、開戦間近の戦雲急を告げる昭和一六年一一月一五日、ロングサイン(ホタルの光)に送られて兵学校を繰り上げ卒業している。少尉候補生として関は大分佐伯湾に停泊中の戦艦扶桑に着任した。扶桑で、ハワイ作戦の支援部隊の一員として出陣。昭和一七年四月二六日に転勤命令が降り、水上機母艦千歳に乗り組み、ミッドウェー作戦、ガダルカナル島への陸兵輸送作戦に参加している。その後、千歳は航空母艦へと改造。関は千歳を退艦して、霞ヶ浦海軍練習航空隊飛行学生となる。
関行男 神風特別攻撃隊 遺書 関行男大尉