上原美優

201105141230246051上原 美優(うえはら みゆ、1987年5月2日 - 2011年5月12日)は、日本のタレント、グラビアアイドルである。本名、藤崎 睦美(ふじさき むつみ)。

鹿児島県種子島(熊毛郡中種子町)出身。鹿児島高等学校中退。プラチナムプロダクション所属。

上原美優 人物・来歴

『貧乏アイドル』として貧乏エピソードを明るく話し、プラチナムプロダクションの看板タレントの一角までに成長したが、芸能界デビューまでは波乱万丈の人生を送っていた。

誕生から高校進学まで 1987年5月2日、10人兄妹(4男6女)の末っ子として生まれる。本名の睦美(むつみ)は六女であることから。この時父親は55歳、母親は43歳だった。出生場所はパチンコ屋の駐車場。母親が大当たり中に破水したため出ていた頭を一度引っ込めた。父親が母親を駐車場まで運んだところで産まれた。

大家族家庭であるため貧しく、「下着が足りずノーパンで通学した」「種子島宇宙センターからロケットが打ち上げられるときには家が揺れるので家族全員で家具を支えた」などのエピソードがある。また、種子島では間食代わりに草を食べていたが、東京で草を食べたところ不味く、東京の草は不味いと怒っていた。また、芸能界デビュー後も花を見ると綺麗かどうかより「食べられるかどうか」を最初に考えるという。

15歳になったら独立する家の決まりがあったが、この理由について「家が貧乏だから」と思い込んで両親を恨み、両親に黙って鹿児島市に在る私立の鹿児島高等学校に進学。先に鹿児島に住んでいた姉の家に身を寄せ、自ら学費を稼ぎながら通学する。高校の制服を購入する金が無く卒業した中学校の制服を着て通学した。そのせいか学校に馴染めずクラスから浮いてしまい、学費を稼ぐためのアルバイトも「夜働いている」「遊びまくっている」など事実無根の噂が立つこととなる。そんな美優に目をつけた高校の女子生徒達の仲間の2人組の男に下校中に襲われる被害にあい、美優はそのことを「二度と思い出したくない最悪の出来事」と語っている。翌日に高校を退学処分となり、程なくしてレディースに加入する。

高校中退から芸能界デビューまで [編集]見かねた姉の勧めによりレディースから抜けようとするも、他のメンバーから袋叩きに遭うが、姉のレディースへの必死の説得により脱退を許される。その直後、姉の呼びかけにより東京に移る。芸能事務所の面接を受けたところ、前述の袋叩きで傷だらけの顔の美優を見た面接官は驚いたが、何とか合格する。

その後姉が美優の新しい服を買った際、今までの服を全部捨てたことを知った美優は、怒って姉に暴行を加えたこともあった。

上原美優 18歳より上野のキャバクラに勤務。

仕送りとして家に5,000円を送っていたが、後に入院した母から「自分で稼いだお金だから自分で使いなさい」と通帳を手渡され、兄や姉の仕送りも、妹達が自分達みたいな苦労をして欲しくないとの理由であった。そして美優の新しいランドセルや洋服は全て兄や姉からのプレゼントであることをこの時知った。自分がテレビ番組に出演するようになってバラバラだった家族がひとつになったと語っている。

デビュー以降2006年、桜井ひな、藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポン「ディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦までで活動終了。

2007年、「sabraブロガール選手権」出場。その後ブランクもあったが、「種子島出身の貧乏アイドル」として人気に火が付く。

2007年のクリスマス(当時20歳)、恋人に振られた寂しさから睡眠薬自殺を図ったが、一命を取り止めた。

2008年夏頃からテレビのバラエティ番組にも多数出演するようになった。

2009年5月には自叙伝である『10人兄弟貧乏アイドル☆ 私、イケナイ少女だったんでしょうか?』が出版される。「泣きながら書いた」という父や母にも黙っていた体験を綴っている。

上原美優 母親の死

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しかし、その母親が2010年3月29日、心筋梗塞で他界。美優本人は仕事で最期を看取れなかったものの、家族全員で揃って葬儀を終えたが、彼女のショックは大きくその後精神的に不安定な様子が見られたという。

上原美優 都内自宅で自殺

2011年5月11日23時頃、東京都目黒区のマンション自室で交際中の一般男性と過ごしていた上原は、「1人にして」と彼を外出させたという。その後外出先から彼が上原に電話をかけたところ彼女が出なかったため上原宅に向かったところ彼女は自室で首を吊っており、翌日早朝に病院で死亡が確認された。遺書はなく所持品の手帳に「お母さんが死んで辛い。このままのスタイルで仕事して先行きどうなるか」というメモが残されていたという。父親は種子島の実家で取材に応じ、死の前日午前中に彼女が「もう種子島に帰りたい、お母さんのところに行きたい」と電話をかけてきたため、慰めつつ故郷に帰ってくる様促したところ同日夜間には元気を取り戻したかのような電話を再びかけてきていたことを明かした。上原の遺体は遺族により故郷種子島に搬送された。