死刑執行! 小林薫死刑囚と金川真大死刑囚からの手紙(『創』2013年4月号より)

3人のうち2人が知り合いだった

2月21日、最初に電話をかけてきたのは朝日新聞奈良総局の女性記者だった。その日、3人の死刑執行があった、どうやらその一人は小林薫死刑囚らしい、という。
 小林死刑囚とは、彼の死刑が確定する2006年10月まで1年近くにわたって頻繁に接触してきた。判決で認定された殺人を自分は犯していないのだが、もう死にたいから法廷ではいっさい争わないことにする、と言って、一貫して死刑判決を望み、自ら控訴を取り下げた人物だった。
 そんなふうに自ら死刑を望む人間にとって、死刑は究極の刑罰ではないし、彼を本当に裁いたことになるのか疑問だ。そんなコメントをした。
 予想通り、その後、たて続けに読売新聞や毎日新聞からもコメント取材が入った。しかもその直後に、3人のひとりは金川真大死刑囚であることもわかった。
 金川死刑囚とも、私は水戸地裁で死刑判決の前後に接見し、本誌に2回にわたって原稿を書いていた。彼の場合は、そもそも死刑になりたくて無差別殺人事件を犯したのだった。つまり処刑された3人のうち2人までが、自ら死刑を望んだケースで、死刑が本来の刑罰の意味を果たさなかった事例だった。彼らへの刑の執行は、逆に死刑のあり方に問題提起をしているように思えてならなかった。
 2月22日付朝日新聞は「自ら死刑選択一因か」という見出しでその問題を報じていた。つまり、自ら死刑を望んだ2人が同じ日に執行されたのは偶然ではなく、執行の順番を決めるにあたって考慮されたのではないか、という見方だ。
 小林死刑囚については拙著『ドキュメント死刑囚』『生涯編集者』に詳しく書いたのだが、ここで改めて、この2人の死刑囚について書いてみたい。そして改めて死刑について少しでも多くの人に考えてほしいと思う。
 2月21日には、私は新聞のほかにTBS、テレビ朝日、そしてラジオ番組の取材も受けたが、報道で指摘されていたことの一つは、小林死刑囚は自ら控訴を取り下げたのに、なぜ確定後、再審請求を起こしていたのか、という問題だ。その小林死刑囚の行動を「生への執着」と表現する報道もあった。
 実は彼が死刑判決後、控訴審に臨むべきか、控訴を取り下げるべきか、迷っていた時期に、私は相談にのっていた。私のもとへは連日のように手紙が届いたのだが、彼の気持ちは日々揺れ動いていた。そして迷ったあげく、控訴を取り下げ、死刑を確定させてしまったのだった。
 本稿では、小林死刑囚の当時の心境を紹介しながら、なぜ彼が死刑確定後も裁判のやり直しを求めたり、再審請求を行っていたかについて探ってみたい。

死刑を自ら望む一方で本誌手記で心情を吐露

小林薫死刑囚と最初に会ったのは2005年11月27日のことだった。当時、彼は情状鑑定を受けるために、勾留されていた奈良少年刑務所から東京拘置所に移管されており、接見も許可されていた。そこで私が手紙を書いて会いに行ったのである。
 彼が事件を起こしたのは2004年11月17日だった。奈良県で下校途中の小学生の女児をわいせつ目的で自宅に連れ込み、殺害したうえで遺体を遺棄したとされた。悲嘆に暮れる母親に「娘はもらった」というメールを送るという残虐な犯行手口が世間を震撼させた。
 小林死刑囚が逮捕されたのは12月30日だった。裁判は05年4月から奈良地裁で開始されたが、途中で弁護側が情状鑑定を求めたため、一時中断。小林死刑囚は3カ月間、東京拘置所に身柄を移された。
 小林死刑囚の印象は、それまでマスコミが報じていた異常人格というイメージとは違っていた。週刊誌などが報じていた小児性愛者というイメージがあまりにもおどろおどろしいものだったので、ギャップを感じた。
 当時、小林死刑囚は、ある問題で悩み、弁護人を奈良から呼び寄せるなどしていた。それまでの裁判で彼は検察側の主張を認めてきたのだが、実はそれは真実ではない、というのだった。法廷でそれまでの証言を覆して真実を述べるべきかどうか、彼は思い悩んでいたのだった。
 検察側の主張では、小林死刑囚は、女児を自宅に連れ込んだものの、そのまま帰すと自分の犯行が発覚するので、女児が風呂に入っているところを頭を押え込んで湯船に沈めて殺害したとされていた。しかし、彼がその時話したのは、いたずらをするために女児に睡眠剤のハルシオンを大量に飲ませたために、気が付いたら湯船の中で死んでいた、というものだった。
 なぜその主張をそれまでしなかったのかというと、疎外された人生を送っていた小林死刑囚は、自ら死刑を望んでいたからだ。もう生きていても仕方ないので、死刑を選択することで死んでしまいたいと考えていたのだった。
 小学生の時に慕っていた母親を亡くしてからは暴力的な父親に育てられ、小林死刑囚は、万引きで警察沙汰になるなど、すさんだ少年時代を送ってきた。学校ではひどいいじめにあったという。社会に出てからも、常に否定され続け、2004年に女児を死なせた時に、自分はもう死んでしまおうと考えたという。
 逮捕後も裁判でも、彼は捜査側の主張をほとんどそのまま認め、死刑を望むと主張してきた。しかし、一方で、真実を語りたいという思いに駆られ、揺れていたのだという。
 小林死刑囚は、その真実を話そうと決心して、「大事な話がある」と弁護人を奈良から呼び寄せた。そして当時、鑑定にあたった精神科医にも同じ話を打ち明けた。ところが、罪を認めたうえで情状酌量を得るために情状鑑定を求めていたその時点で、裁判を最初からひっくり返すような被告人の話を、弁護人はにわかに信じなかったらしい。彼は失望に囚われ、もう法廷で自分の主張をするのはやめようと考えた。
 2006年2月の手紙に小林死刑囚はこう書いていた。
「奈良少刑へ戻って来た翌日までは、私はまだ『創』に書いたことを法廷で話すつもりでいたのです。でも、どうせ誰にも信じてはもらえないのか、という思いから、それをやめ、『創』に掲載してもらおうと手紙を書き送り、3月号に載せてもらったのです」
 奈良地裁での公判は再開されたが、小林死刑囚はもはや、自分の本心を法廷で述べる意欲を失っていた。そして本誌に「真実」と題する手記を寄せたのだった。