再審無罪から30年免田栄さん(87) 過酷な体験でしたね? 世間も冤罪に目が開けた【冤罪事件】

2013083120130324-239537-1-N死刑判決を受けた免田栄さん(87)が再審無罪となり、釈放されたのは1983年7月。まもなく30年を迎えるが、逮捕から無罪まで、免田さんは34年間も身柄を拘束された。自由の身になってからよりも拘置所にいた時間の方がまだ長い。福岡県大牟田市の自宅を訪ね、日本の司法への今の思いや近況を聞いた。

 ――どうお過ごしですか。

 「何もしとらんのですが、体は丈夫で、自転車にも乗ります。この間は、子どもが野球をしてたからノックした。暖かくなれば、近くの川でウナギを捕ります」

 ――なぜ大牟田に住んだのですか。

 「釈放された後に結婚した家内が大牟田に家を持っとったから。炭鉱の労働者の町で、気遣いもせんでよかった」

 ――熊本では気遣いが多かったですか。

 「やっぱり顔を知られとるからね。町を歩くと、(出会う人が)後ろで指さす。目つきが悪いとか、刑務所から出て来た人間は歩き方まで違うとか、そういう目で見る。大牟田でも最初はありました。しばらくはきつかったですね」

 ――34年ぶりの世の中は変わっていたでしょう。

 「私は60歳近くになり、世の中は食料が豊かで、服が違い、人も変わっていた」

 ――拘置所にいた頃の夢を見るそうですね。

 「刑場に向かう死刑囚の夢を見ます。福岡の拘置所では、2階の部屋から、運動場の向こうの刑場に入る者が見えた。振り返って、縛られた両手をちょっと挙げて、私たちに合図して入って行く。笑っているんですよね。先に行って待っとるけんって言うて。私もいつやられるか。その覚悟はしておりました」

 ――冤罪(えんざい)を生んだ警察や検察、裁判所への怒りは。

 「許せんと思う一方、彼らのやったことも分かる。刑事でも、弁護士でも、ヤミで食料を買わんと生活できんような混乱した時代だったから。今のように弁護士がついて、きちんとやってくれていたら、私はすぐに解放されていたと思う」

 ――拘置所でキリスト教に入信されたんですね。

 「洗礼を受けました。今でも、朝夕は床の中で祈る。だから悪かことができんのです(笑)。(聖書を手に取り)拘置所で大切なところに線を引き、何度も読みました。十字架に架けられたキリストのことを思うと力がわいた。つらい時は今も、聖書の言葉を口にして気持ちを整理します」

 「社会に出てからも、精いっぱい我慢して一生を終わらにゃいかん、と思ってきました。後に続く人たちのためにも、まっすぐ行く道を曲がったらいかんと。でもまあ、30年間、何事もなく来ましたから、良かったんじゃないですか」

 ――大変な人生ですね。

 「死刑が確定して第3次再審請求の受理まで、すぐに執行されるかもしれん数年が大変だった。よお生きてきたと思います」

 「ただ、人間の社会じゃ、やることをやり通したという誇りもあります。この国の司法相手によく闘って、司法が変わった。世間も(冤罪の存在に)目が開けてきた。国民の権利と人権が向上した。苦労もムダじゃなかったなと思っとります」

――逮捕がなかったら、どんな一生だったでしょう。

 「平凡な農民だったでしょう」

――平凡に過ごしたかったですね。

 「いやあ、あの34年はやっぱり、よか勉強になりました(笑)」

 <略歴>1925年11月4日、免田町(現あさぎり町)生まれ。41年、免田尋常高等小学校卒。42年、長崎県大村市にあった海軍航空廠(しょう)に徴用。45年帰郷。49年、強盗殺人容疑で逮捕。52年、最高裁で死刑確定。83年、熊本地裁八代支部の再審で無罪。

 <後記>ドストエフスキーは、社会主義のグループに所属したために死刑を宣告された。処刑は寸前に回避されたが、死のぎりぎりまで追いつめられた経験は、その後のドストエフスキーに大きく影響した。

 免田さんは、ドストエフスキーよりはるかに長い間、身に覚えのない罪で国に殺される可能性があった。その過酷さの本当のところは、「再審の上申書には、1字1字、お願いしますという気持ちを込めた」という免田さんの話から想像するしかない。

 絶望的な状況から文字通りの「生還」は、免田さんの不屈の精神とキリスト教の信仰、それに生来の明るさが支えたのだろうと、その人柄に触れて思った。岩永芳人