山口組6代目“激怒”情報 離脱組への切り崩し工作激化 不穏な噂も…

国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の分裂騒動で、トップに立つ篠田建市(通称・司忍)組長(73)の動向に注目が集まっている。6代目に就任して今年で10年の節目。強烈なカリスマ性で組織をまとめ上げたが、自身の出身母体である弘道会(名古屋市)を中心とした支配体制への反発が、今回の分裂劇を招いたとの指摘がある。「反旗を翻した連中に激怒している」(山口組関係者)との情報も伝わる。1日には総本部で直系組長による定例会が開かれ、緊迫した局面を迎えた。篠田組長は、どんな一手を繰り出すのか。

 神戸市灘区篠原本町の山口組総本部では、この日朝、大型のシャッターが開き、直系組長とみられる関係者の車が次々と吸い込まれた。出迎えの組員や警戒にあたる兵庫県警、多くの報道陣で緊迫した空気に包まれた。

 「自分勝手な行動を取る者は脱落する」

 2011年10月、産経新聞のインタビューで篠田組長はこう語っていた。

 暴力団排除条例の全国施行を受け、今後の組織運営について問われた場面での回答だ。

 さらに「山口組の歴史を守ろうと思うと、時代に即応した順応性が必要だ」「時代感覚を捉えていない、時代を上手に理解しなくて自分らの形だけを守ろうとしている旧態依然の感覚の者が落後していったというのは事実」とも述べている。

 捜査関係者によると、こうした一連の発言から今回の分裂劇の遠因が垣間見えるという。

「今回の造反劇の中心にいる山健組は、まさに篠田組長が指摘した『旧態依然』の体質が残る組織だ。シノギ(資金獲得活動)も、暴力団の威光を前面に出したスタイルを取る傘下組織が多く、周辺者らと連携してより狡猾な手法を取る弘道会系組織とは対照的だった」(捜査関係者)

 関係者によると、山健組を中心とする離脱組は、非弘道会系組織への人事面での冷遇や、厳格な管理体制に不満を募らせていたとされる。これに加えて、篠田組長が推し進める弘道会中心路線に「良くも悪くも古い体質を引きずっていた離脱組がついていけなくなった側面もある」(同)との見方だ。

 暴排条例の施行による“暴力団冬の時代”のなかで、弘道会を中心とした執行部への権力一極集中で生き残りを狙っているようにも映る篠田組長。ただ、日本最大の暴力団トップにのし上がっていった篠田組長の過去を振り返ると、力でねじ伏せる暴力抜きには語れない。

 「大分県出身で20歳のころ、名古屋市の弘田組の組員となり、敵対組織との抗争を繰り返して頭角を現した。古参組長らが一和会を結成し、組が分裂して抗争事件が相次いだ、1984年の『山一抗争』のあおりを受けて弘田組が解散すると、その地盤を受け継ぐ形で弘道会を結成した。その後も数々の抗争事件を起こして組織内での存在感を高めていった」(別の捜査関係者)

 95年の山口組系組員による警官射殺事件の損害賠償請求訴訟で、使用者責任が問われた渡辺芳則5代目組長が引退を余儀なくされると、後継の6代目に就任。当初、渡辺前組長の出身母体である山健組からの選出が有力視されていたが、圧倒的な資金力と実力を背景に頂点に登り詰めた。

組長就任直後の2005年12月には銃刀法違反罪が確定し、収監されたが、6年に及ぶ不在期間中も組織に大きな動揺はなく、求心力を改めて示した。

 前出のインタビューでは「法治国家に住んでいる以上は法を順守しないといけない」と述べ、あくまで平和路線を敷くと強調していた篠田組長。だが、今回の分裂劇に直面し、不穏な情報も流れる。

 弘道会系の組関係者は「6代目は反旗を翻した連中に激怒している。当初は30団体以上が離脱という情報もあったが、激怒の話が伝わったことで離脱組は3分の1ぐらいに減った」と声を潜める。篠田組長の激怒で、執行部による離脱組の切り崩し工作がより激しさを増したというのだ。

 前出のインタビューのなかで篠田組長は「山口組を解散し、直系組織が個々の団体になった場合、当然縄張り争いが起き、抗争事件が続発している九州のようになる」との発言もしていた。

 捜査関係者や組関係者の間では、1日に開かれた山口組の定例会で、どの組織が欠席し、どんな通達が出されるかに注目が集まっている。対立が強まれば抗争に発展する恐れもあり、警察当局は情報収集に全力を挙げている。