矢野治死刑囚 伊勢原で遺体発見「週刊新潮」に矢野治死刑囚が告白した殺人事件の全容

yano20160419yano0001前橋スナック銃乱射事件(2003年)で死刑が確定した、指定暴力団、住吉会の幹部・矢野治(67)が獄中から新たに告白した殺人を巡り、警視庁と神奈川県警は19日、津川静夫さん(失踪時60歳)と見られる遺体を発見した。

矢野が警視庁と本誌(「週刊新潮」)に対し、警察も把握していなかった2件の殺人を告白する手紙を送ってきたのは、一昨年末と昨年5月のことだ。本誌は取材に1年余りを費やし、彼が明かした事件の全貌を報じた。

 闇から闇に葬られた殺人事件の犠牲者は、2人いる(図参照)。最初の被害者が、1996年8月に家族の前から忽然と姿を消した、不動産業者の津川さんだった。小田急線伊勢原駅前の再開発をめぐり、津川さん所有の土地を奪おうとした住吉会系組織の若頭が矢野に殺害を相談。彼がこれを別の組長に依頼した結果、津川さんは、その配下の組員に殺害されたというのである。

そしてもう一人は、1997年、政界を揺るがした事件のキーマンとして、社会の耳目を集めた人物だった。現役の国会議員、友部達夫(故人)が多くの国民から多額の金を騙し取った「オレンジ共済事件」。この事件に絡み、5億円もの金を新進党に運び、政界工作を仕掛けたとされた斎藤衛である。“永田町の黒幕”と呼ばれた彼は、2度も国会に証人喚問された。

 その斎藤と知り合いだった矢野は、彼に1億円ほど金を貸していた。しかし8600万円が焦げ付いたことを機にトラブルとなり、自らの手で絞殺したという。

yano20160419yano0002いずれのケースでも、矢野の指示を受け、死体を遺棄したのは、彼が率いた「矢野睦会」の元組員、結城実氏(仮名)だった。

 このうち、最初の伊勢原の事件の捜査を優先してきた警視庁が、津川さんの遺体の捜索に着手していた。もっとも、当初、警察は矢野の告白を握り潰そうとしていた節がある。1年以上に亘り事案を完全に放置していたからだ。

この間、本誌は結城氏に接触し、全容を明かすよう、説得を重ねた。結果、ついに彼は重い口を開き、こう証言してくれたのだ。

「津川さんの死体は、伊勢原の大山の林道脇にあるブナの雑木林に穴を掘り、埋めた。斎藤については、木村洋治(仮名)という組員とともに、埼玉の飯能あたりの山中の雑木林に遺棄した」

本誌の報道を受け、警視庁は慌てて、結城氏への任意聴取に着手し、今日に至ったというわけだ。

■動機は10億円利権

yano20160419yano0003遺体捜索はどう行われていたのか。捜査関係者の解説を聞こう。

「津川さんの失踪直後、奥さんが、神奈川県警に捜索願を出していました。現場が伊勢原ということもあり、警視庁と神奈川県警の共同捜査となりました。またユンボなどの重機が入れられない斜面なので、スコップなどでの手作業だったようです。また結城元組員も、現地に伴いました」

 それにしても、なぜ津川さんは、暴力団絡みのトラブルに巻き込まれたのか。

「彼は1982年、伊勢原駅前の350平方メートルの土地を競売により2309万円で落札した。物件を更地にして転売しようと考え、ビルのオーナーやテナントに明け渡しや退去を求め、裁判を起こしました」(知人)

 紆余曲折を経て、勝訴が確定したのは今から丁度20年前の7月のことだった。

「すでに90年には、駅前一帯は伊勢原市による再開発計画が決定していた。本人は“うまくいけば、市が10億円で買いとってくれる”と興奮していました」(同)

 しかし好事魔多し。この間、津川さんは会社の資金繰りに窮していた。

「そのため、ある金融業者を通じ、暴力団幹部から1700万円の融資を受けてしまっていた」(同)

 この暴力団幹部こそ、先に述べた住吉会系組織の若頭だったのである。彼は、この土地を奪って、大儲けしようと目論んだのだ。

 当時の状況を、津川さんの妻はこう振り返った。

「忘れもしない20年前の8月10日、伊勢原の自宅で寛いでいた主人は、宅急便を名乗る電話の男に呼び出され、サンダル履きで外に出かけて行きました。それっきり帰ってこず、私たちの時間は止まったままです」

 津川さんは自宅近くで犯人の車に乗せられ、絞殺されたという。若頭が、津川さんから担保に取っていた土地の権利証などを使って、所有権を自分に移したのはこの2日後のことだった。

 遺体発見前、津川さんの妻は本紙にこう打ち明けていた。

「私は仏壇も遺影も作らず、夫を待ち続けました。しかし殺害され、埋められたのが事実なら、一日も早く、骨だけでもいいから、私の元に帰ってきてほしい」(同)

 凍りついた失踪の謎は氷解した。止まった時が今、再び動き出そうとしている。