自由貿易を推進するアメリカでなぜTPP懐疑論が出るのか

アメリカ次期大統領のドナルド・トランプ氏は選挙中からTPP(環太平洋経済連携協定)反対を掲げてきました。アメリカとTPPは今後どうなっていくのか。ここではTPPと現在のアメリカについて2回に分けて論考。前編の今回はアメリカのTPP懐疑論について、後編はトランプ氏のTPP離脱発言について、アメリカ政治に詳しい成蹊大学の西山隆行教授に寄稿してもらいました。

2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプが勝利したことにより、バラク・オバマ大統領の政治的業績(レガシー)が危機に瀕しています。

 トランプは11月21日、就任後100日間の優先事項を説明する動画メッセージで、日米などが署名したTPPから大統領への就任初日に離脱する考えを明らかにしました。トランプはTPPの代わりに、雇用と産業をアメリカに取り戻すことができるよう、公平な二国間貿易協定の交渉を進めていくと発言しています。

 TPPは、先日紹介したオバマ・ケアと同様に、オバマ政権の重要な業績だと考えられます。TPPの行方はどうなるのでしょうか。そもそも、TPPとはいったいどのようなものなのでしょうか。

アジア方式とスパゲティ・ボウル現象
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アジア太平洋地域でTPPのような多国間協定を結ぶのは、実は挑戦的な課題でした。アジア太平洋地域には政治体制や経済発展段階が大きく異なる国々が含まれているため、共通ルールを構築するのが難しいからです。

 第二次世界大戦以後、アメリカを中心とする自由主義諸国では、貿易自由化の実現を目指してきました。それは単に関税や輸出入に関する制限を削減・撤廃することにとどまらず、非関税障壁と呼ばれる国内の商慣行の改善も目指されてきました。

 先進国が実現しようとしてきた自由貿易協定は、野放図な自由化を目指すものではありません。経済的利益を追求するために諸々の知的財産権を無視したり、環境を悪化させたり、労働者を搾取したりするのは望ましくないという考え方も同時に提起されていて、知的財産権や地球環境の保護、労働基準の共通化などを実現するためのルール作りも試みられてきました。

 自由貿易を目指す試みは、従来、GATT(関税と貿易に関する一般協定)やWTO(世界貿易機関)の下での実現が目指されてきました。しかし、近年ではWTOにおいて先進国と途上国の対立が顕著になっているので、世界規模で協定を結ぶのは難しくなっています。そこで、まずはアジア太平洋地域において有志の12か国を中心に協議を始めようというのがTPPの目指すところでした。TPPは最終目的として構想されたものではなく、次の段階ではAPECの全メンバーからなるFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)につなげ、それをさらに世界規模に拡大していこうという大きなビジョンに基づいていたのです。

 従来APEC諸国が取ってきた方針は、各国の自主的な取り組みを基礎として、合意可能な範囲でルールを決めていこうというものでした。各国の自主性と自発性を重んじて法的拘束力を課すことのないその方式は、しばしば「アジア方式」と呼ばれましたが、これでは貿易自由化が進展しないばかりか、環境規制や労働規制も進みません。TPPは、このような状態を脱し、契約に基づいた、秩序ある貿易自由化を目指そうとしたものなのです。

 アジア太平洋地域で共通のルールを設けることは、国際貿易の実情を考えても重要なことでした。今日では、様々な製品やサービスが複数の国をまたいで流通しています。国境を越えたサプライ・チェーンが構築され、様々な製品が、複数の国で作られた部品を組み立てることによって作られています。2011年のタイの洪水で話題となったように、複数の東南アジア諸国で作られた部品が、タイに存在するトヨタや日産の生産工場で組み立てられて製品化され、諸外国に輸出されているというようなことをイメージしてもらえば分かりやすいでしょう。

 今日、様々な国が多数の二国間自由貿易協定(FTA)を結んでいますが、これは、様々な部品の関税率などについてそれぞれが異なるルールを備えていることを意味します。このような状態は、ボウルの中でスパゲティが絡み合っているのと同じようにFTAのルールが絡み合って複雑化していることから「スパゲティ・ボウル現象」と呼ばれています。

統一的なルールをつくる試みだったはずが……

 このような状態では、法務部などを備えた大規模企業ならまだしも、中小企業などが二国間FTAで定められた有利な関税率を利用するのが困難になります。TPPは、スパゲティ・ボウル現象を解消し、地域に統一的な関税体系とルールを設定する試みでもあったのです。

 TPP交渉が始まると、オーストラリアやシンガポール、日本は「共通譲許」の実現に向けて尽力しました。

 共通譲許方式とは、交渉によって定められた自由化方式に沿って各国が対象品目を定め、多国間協定を締結したどの国から輸入される場合でも、自国の譲許表に沿った同じ税率を適用しようとする方式のことです。

 しかし、驚くべきことに、もともと共通譲許設定を提唱していたアメリカが、交渉の途中から、共通譲許を作るのではなく、二国間協定の積み重ねによるTPP実現を主張したのです。もちろん、ルールの共通化もある程度は実現しましたが、最終的にTPPは、従来の二国間協定によって作られたスパゲティ・ボウルに、不足していた二国間協定を足し合わせるものとなったことも否めません。つまり、スパゲティ・ボウル現象は解消されなかったのです。

 つまり、オバマ政権は貿易協定締結という業績の達成を目指し、共通譲許設定という目的を早々に断念したのでした。オバマ政権はオバマ・ケアに関しても、もともと主張していたパブリック・オプションを早々に断念して民間医療保険をもとにした医療保険制度改革を行いました。崇高な目的を掲げるものの、実際には早々に立場を変更して、当初の目的とは大きく異なるものを作り上げるのがオバマ政権の特徴なのかもしれません。

実生活では自覚しにくい自由貿易の恩恵

 ではなぜ、オバマ政権はTPPに関する方針を変えたのでしょうか。その背景には、アメリカ国内で自由貿易に対する懐疑が強いことがあります。例えば、2014年にピュー・リサーチ・センターが実施した世論調査では、貿易がアメリカにとって良いと回答したのは68%でしたが、TPPがよいとしたのは55%でした。また、貿易が雇用を創出すると回答した人の割合は先進国全体で44%でしたが、アメリカでは20%しかありませんでした。貿易が賃金を上昇させると回答した人も、先進国全体では28%でしたが、アメリカでは17%でした。

 自由貿易を積極的に推進してきたアメリカで、他の国と比べて自由貿易に対する懐疑が強いのはおかしいと思う人もいるかもしれません。しかし、貿易の自由化が進展した国で、さらなる貿易自由化に対する批判が強まるのは、実は不思議ではありません。

 18世紀末から19世紀初めにかけて活躍したイギリスの経済学者リカードの比較生産費説が示すように、自由貿易は理論的には国民全体の利益を増大させる政策です。しかし、自由貿易のもたらす恩恵は国民全体に広く分散していて、明確に自覚されることはありません。

 例えば、野菜を外国から輸入した結果、野菜が以前より多少安く購入できるようになったとしても、得をしたと思い続けてくれる人は少ないでしょう。そのため、一般国民が自由貿易の実現に向けて積極的に働きかけようとする誘因は弱くなり、自由貿易推進を目指して活動するのは、自由貿易からの恩恵を直接的に受けやすい、比較優位を持つ産業の人々に限定されます。日米関係を例にとれば、アメリカの農業などの輸出競争力がある産業です。経済格差の拡大がしばしば指摘される今日、比較優位を持つ産業を利するとイメージされる政策にはなかなか支持が集まりません。

 他方、自由貿易から不利益を被る可能性が高い、比較劣位にある産業に従事する人々 は、自由貿易に反対の立場をとります。日米関係で考えれば、アメリカの自動車産業はこの例に当たります。他方、米豪関係を例に考えれば、アメリカの農業はむしろこのような立場に立ちます(なので、アメリカの農家はTPPよりも日米の二国間FTAを好むのです)。これは一面では、比較劣位にある産業が既得権益の維持を主張していることを意味します。

「経済合理性」と「有権者の利益」

 経済学では、自由貿易の結果として比較優位を持つ部門が拡大し、比較劣位にある部門が縮小することは、好意的に評価されます。しかし、民主政治では、経済学的合理性よりも有権者や利益集団の意向が尊重されるのが一般的です。そのため、自由貿易政策から不利益を被ったり、将来に対する不安をおぼえた人々に対して補償・再分配政策を採用することは、正当なものと考えられています。このような調整コストについて考察することも重要な課題になるのです。

 貿易障壁の撤廃は、その国の 経済活動に利益をもたらすでしょう。しかし、貿易の自由度が高まるのにつれて、貿易障壁の撤廃によりもたらされる利益は小さくなり、調整コストが相対的に大きくなるのは避けられません。伝統的に小さな政府を提唱するアメリカで、補償・再分配政策を採用することに対する批判は強いです。世界で最も貿易自由化が進んだアメリカで、さらなる自由化に対する反発が強くなるのは不思議ではありません。

■西山隆行(にしやま・たかゆき) 成蹊大学教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。甲南大学教授を経て現職。主著に『移民大国アメリカ』(筑摩書房、2016年)、『アメリカ政治』(三修社、2014年)、『アメリカ型福祉国家と都市政治』(東京大学出版会、2008年)など