日本で起業家はなぜ育たない?

私がかつて勤めていた親会社が倒産した時、バンクーバーでの事業は順調に推移していました。「倒産」という現実を突きつけられた時、すぐさま頭に浮かんだのは3つ。カナダで職を探す、日本に戻り職を探す、家業を継ぐでした。しかし、この選択肢にピンとくる答えはありませんでした。

会社勤めをしていると誰しも一度や二度必ず考えるのが転職。私なんて5回や10回は考えたかもしれませんが、辞めて何をやりたいのかその答えが出ませんでした。それは自分が何ら特段秀でた才能や専門技能を持ち合わせていないからでしょう。ましてや私の担当分野は不動産開発ですから仮に興味があったとしても資金がありません。

但し、一つだけ夢がありました。それは入社して1年目で担当した逗子マリーナの改修工事で初めて同マリーナを訪れたときの衝撃であります。ヤシの木並木と高級マンション、その向こうには多くの高級クルーザーが停泊しています。そこは完全なる別世界であります。「いつかこんなマリーナ、持てるようになったらなぁ。」

会社が倒産したのちの身の振り方を考えていてずっと気になっていたのが自分がバンクーバーで開発したマリーナでありました。「多分、日本以外で日本の会社が開発し所有運営するマリーナはここしかない。これを手放すのはあまりにももったいない。」これがもやもやが晴れるトリガーとなりマリーナを含むバンクーバーの不動産開発会社の買収と相成ります。

サラリーマンをしていると歯車の歯車の仕事しかさせてもらえないことが多いと思います。となれば技術者であればともかく、一般職の場合には会社を飛び出しても手に職がありません。ただ、私が勤めていたゼネコンはユニークが取り柄の会社だったため、倒産後、多くの起業者や成功者を輩出しました。

例えば私の同期で若い時からホテル事業を担当し、海外畑で活躍したM君は宮崎で最も有名なあのリゾート施設の社長をしています。私の元上司Sさんは住宅性能の検査会社ではトップクラスの会社の社長をしています。

そこに共通するのは「枠からはみ出した」事業に対する熱意だったと思います。会社の指示が間違っていればとことん闘う、そして親会社の判断をひっくり返すほどの迫力を何度も示し続けました。決してYESマンであったことはなかったと思います。私も自分の案件で取締役会での決議事項に関して取締役らへの事前根回しのため1泊3日でクリスマスイブに東京に出張し、議決を勝ち取ったこともあります。

日経に2つの興味ある記事が掲載されています。一つは「『起業家集団作る』 10兆円ファンドで孫社長意欲」と「韓国起業熱 大手が後押し ソウル・江南 VB躍る」であります。かつて起業はシリコンバレーに集中していました。今、その芽はあちらこちらで展開しようとしています。少なくとも資金の出し手が出てきたことは大いなるチャンスでしょう。

私の会社のIT担当者に頼んでいた自社のレンタカーがいまどこを走っているのか所在地を確認するGPS。市販品はありそうでなかなか見つからなかったのですが、中国広州で見つけ、購入してきてくれました。その価格、機能とも申し分ありません。「広州に行けばものすごくいろいろな種類がありました!」といわれて「昔の秋葉原みたいなものかい?」と聞けば「比較にならない」と。中国でも一旗揚げようという起業家が様々なものを生み出しているのだろうと思います。

それを考えると日本人は大人になり過ぎたかもしれません。ハングリーさもないし、「起業して俺はこれを生み出してやる」という刺激もないのでしょう。何でもある日本と言われます。しかし、ありそうでないのが日本の製品であったりもするのです。なぜ、それに気が付かないか、といえばいつも同じパタンの生活をし、同じ仕事を繰り返していることもあるでしょう。

起業するにも様々な壁があります。資金はどうする、家族の理解は得られるのか、フェイルセーフ(失敗した時の対策)は大丈夫なのか、など色々あります。しかし、あまりにもいろいろ考えすぎると逆に一歩も踏み出せなくなるのが起業のハードルです。

ITの開発手法にアジャイル開発というのがあります。短時間で開発し一部だけでも完成させ、いち早く市場に出していく手法です。アメリカの起業家は7割でスタートしろ、と言います。日本人は120%になってもまだぐずぐず言います。この違いこそが日本から起業家マインドが盛り上がらない理由なのかもしれません。

我々は変身できるのでしょうか?

では今日はこのぐらいで。