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日本事件簿

「袴田事件」再審決定 袴田 巌元被告、東京拘置所から釈放

「袴田事件」再審決定 袴田 巌元被告、東京拘置所から釈放

1966年6月、一家4人が殺害されたいわゆる「袴田事件」で、静岡地裁は27日、証拠がねつ造された可能性にまで言及し、裁判のやり直しを決定した。
これを受けて袴田 巌元被告(78)は午後5時20分ごろ、東京・小菅の拘置所から釈放され、自分の足で歩いて車に乗り込んだ。

小暮洋史(こぐれ・ひろし)ストーカー行為を働いた挙げ句にターゲット女性の家族を惨殺して逃亡

小暮洋史(こぐれ・ひろし)ストーカー行為を働いた挙げ句にターゲット女性の家族を惨殺して逃亡

群馬一家3人殺害事件(1998年1月)小暮洋史(こぐれ・ひろし)
20131007kogure27_l前回、偶然にも記事掲載後に逮捕された"リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件"の被疑者・市橋達也の取り調べの様子が連日のように報じられ、改めて世間の注目を浴びている。これにより、そのほかの指名手配事件についても情報公開の重要性が見直され、より多くの人々が未解決事件に関心を持つことで事件解決が早まり、さらには犯罪抑止に繋がることを期待したいところだが......現実はそう甘くない。日本全国、毎日どこかで凶悪事件が発生し、依然として逃亡中の犯人・被疑者は大勢いる。あるコメンテーターは、市橋が逮捕される数日前、次のように話していた。

「指名手配というのは単なる管轄外の警察署への通達作業であり、現状では一般市民への情報提供の呼びかけとして有効ではない。一刻も早く犯人を捕まえるために、これからは無数にある人々の目を利用していかなければいけない」

 つまり、既存の指名手配制度を見直し、一般市民レベルまで手配情報が浸透するような新しいシステムを構築しなければいけないという提案である。現状ではどうしてもマスコミに依存する形になってしまっていて、時には歪んだ情報を生んでしまうことも......。本来であれば、警察主動で情報公開・収集を充分な形で行うべきなのである。今後、捜査のあり方がどう変わっていくのか注目していきたい。

 さて、今回取り上げる未解決事件は、「群馬一家3人殺害事件」。1998年1月14日に起こってからすでに12年が経とうとしている。群馬県高崎市(旧群馬町)三ツ寺で電気工事業を営んでいた石井武夫さん(当時48歳)の自宅で、武夫さんをはじめ、妻・千津子さん(当時48歳)、武夫さんの母・トメさん(当時85歳)の3人が惨殺され、すぐに運送会社の元従業員・小暮洋史(こぐれ・ひろし/当時29歳)が全国に指名手配された。事件のなりゆきは、次の通りと見られている。

 商品の運搬のために高崎市内のドラッグストアを訪れた小暮は、同店に勤務していた武夫さんの長女(当時26歳)に一目惚れする。勤務時間以外でも度々出入りするようになり、何度もしつこく食事やデートに誘ったものの、長女に断られ続けて逆上。長女が運転する車を尾行したり、家までつきまとったりしたほか、電話を執拗にかけてきたという。そして、ストーカー行為は次第にエスカレートしていき、ついに数カ月後、悪夢のような事件を起こしてしまう。

 事件の数日前、会社の掲示板に「辞めます」とだけ書き残して消えた小暮。突然、石井家を訪れて長女に会わせてほしいと求める。しかし、長女が外出中だったため、家族が断ると......小暮は勝手に家に上がり込み、鋭利な刃物で武夫さんの胸、千津子さんの背中を刺して殺害。そして最後に、抵抗することもできないトメさんの首を絞めて殺害。当時の報道によると、小暮は大量の血を流して亡くなった武夫さん夫妻の遺体を、浴槽に運んで片付け、長女の帰りを待っていたという。数時間後、家に戻った長女の目に映った悲惨な光景は、まさに悪夢そのものであっただろう。それでも、小暮に対して説得を試み、自らの命を守ることができたのは、並々ならぬ精神力があってこそと言える。小暮はしばらくの間、長女と現場に留まっていたが、やがて何かを諦めたかのように石井家をあとにして、乗りつけていた自分の車で逃走したという。ここまでが、生き残った長女の証言、そして警察の発表をもとにした事件の概要である。

 先述の通り、警察によって全国指名手配された小暮は、国道50号線を茨城方面に向かって逃走。1週間後には群馬県太田市と埼玉県熊谷市(旧妻沼町)で小暮の車が目撃されたが、それ以降の消息はつかめていない。事件の直前、小暮は知人に「警察に見つからずに死ぬ方法がある」と話していたという証言から、警察は自殺の線を追って各地の要所を捜索したとされているが、現在まで痕跡すら発見できていない。

"自殺説"を真に受けてか、それとも長期間に渡って手がかりが得られないためか、群馬県警高崎署のホームページに掲載されている指名手配情報は、ほかの凶悪事件に比べて写真や情報量が異様に少ない。冒頭に記した市橋の場合は、事件詳細のほか、何十種類もの顔写真と全身写真、本人の肉声、多岐に渡る個人情報、プロファイリングの専門家による性格分析、そして破格の懸賞金1,000万円......など、「絶対に逮捕してやる!」という強い信念が印象に残る情報公開・捜査を行っていた。被害者が外国人だったから、という理由だけで片付けてしまうのは、いささか短絡的ではないか。そもそも、前述の"自殺"をほのめかす証言にしても、犯行後の逃走を考えた上での伏線とも取れるし、車などは少し金をかければいくらでもスクラップにできる。過去、多くの犯罪者が時効まで逃げ切っていることを考えても、確実に死亡確認が取れるまでは追い続けなければいけない凶悪事件の被疑者なのだ。

 愛する家族が犠牲になった長女の無念さは、いつまでも晴れることはないだろう。願わくば、犯人の影に怯えることなく、穏やかに眠れる日が1日でも早く訪れてほしい。

小暮洋史(こぐれ・ひろし)プロフィール

被疑者:小暮洋史(こぐれ・ひろし)
生年月日:1969年7月31日
本籍:群馬県
身長:170cm前後
逃亡時の使用車両/日産・シルビア(ナンバー「群馬33 も 8670」)
公訴時効成立:2013年1月14日

再審無罪から30年免田栄さん(87) 過酷な体験でしたね? 世間も冤罪に目が開けた【冤罪事件】

再審無罪から30年免田栄さん(87) 過酷な体験でしたね? 世間も冤罪に目が開けた【冤罪事件】

2013083120130324-239537-1-N死刑判決を受けた免田栄さん(87)が再審無罪となり、釈放されたのは1983年7月。まもなく30年を迎えるが、逮捕から無罪まで、免田さんは34年間も身柄を拘束された。自由の身になってからよりも拘置所にいた時間の方がまだ長い。福岡県大牟田市の自宅を訪ね、日本の司法への今の思いや近況を聞いた。

 ――どうお過ごしですか。

 「何もしとらんのですが、体は丈夫で、自転車にも乗ります。この間は、子どもが野球をしてたからノックした。暖かくなれば、近くの川でウナギを捕ります」

 ――なぜ大牟田に住んだのですか。

 「釈放された後に結婚した家内が大牟田に家を持っとったから。炭鉱の労働者の町で、気遣いもせんでよかった」

 ――熊本では気遣いが多かったですか。

 「やっぱり顔を知られとるからね。町を歩くと、(出会う人が)後ろで指さす。目つきが悪いとか、刑務所から出て来た人間は歩き方まで違うとか、そういう目で見る。大牟田でも最初はありました。しばらくはきつかったですね」

 ――34年ぶりの世の中は変わっていたでしょう。

 「私は60歳近くになり、世の中は食料が豊かで、服が違い、人も変わっていた」

 ――拘置所にいた頃の夢を見るそうですね。

 「刑場に向かう死刑囚の夢を見ます。福岡の拘置所では、2階の部屋から、運動場の向こうの刑場に入る者が見えた。振り返って、縛られた両手をちょっと挙げて、私たちに合図して入って行く。笑っているんですよね。先に行って待っとるけんって言うて。私もいつやられるか。その覚悟はしておりました」

 ――冤罪(えんざい)を生んだ警察や検察、裁判所への怒りは。

 「許せんと思う一方、彼らのやったことも分かる。刑事でも、弁護士でも、ヤミで食料を買わんと生活できんような混乱した時代だったから。今のように弁護士がついて、きちんとやってくれていたら、私はすぐに解放されていたと思う」

 ――拘置所でキリスト教に入信されたんですね。

 「洗礼を受けました。今でも、朝夕は床の中で祈る。だから悪かことができんのです(笑)。(聖書を手に取り)拘置所で大切なところに線を引き、何度も読みました。十字架に架けられたキリストのことを思うと力がわいた。つらい時は今も、聖書の言葉を口にして気持ちを整理します」

 「社会に出てからも、精いっぱい我慢して一生を終わらにゃいかん、と思ってきました。後に続く人たちのためにも、まっすぐ行く道を曲がったらいかんと。でもまあ、30年間、何事もなく来ましたから、良かったんじゃないですか」

 ――大変な人生ですね。

 「死刑が確定して第3次再審請求の受理まで、すぐに執行されるかもしれん数年が大変だった。よお生きてきたと思います」

 「ただ、人間の社会じゃ、やることをやり通したという誇りもあります。この国の司法相手によく闘って、司法が変わった。世間も(冤罪の存在に)目が開けてきた。国民の権利と人権が向上した。苦労もムダじゃなかったなと思っとります」

――逮捕がなかったら、どんな一生だったでしょう。

 「平凡な農民だったでしょう」

――平凡に過ごしたかったですね。

 「いやあ、あの34年はやっぱり、よか勉強になりました(笑)」

 <略歴>1925年11月4日、免田町(現あさぎり町)生まれ。41年、免田尋常高等小学校卒。42年、長崎県大村市にあった海軍航空廠(しょう)に徴用。45年帰郷。49年、強盗殺人容疑で逮捕。52年、最高裁で死刑確定。83年、熊本地裁八代支部の再審で無罪。

 <後記>ドストエフスキーは、社会主義のグループに所属したために死刑を宣告された。処刑は寸前に回避されたが、死のぎりぎりまで追いつめられた経験は、その後のドストエフスキーに大きく影響した。

 免田さんは、ドストエフスキーよりはるかに長い間、身に覚えのない罪で国に殺される可能性があった。その過酷さの本当のところは、「再審の上申書には、1字1字、お願いしますという気持ちを込めた」という免田さんの話から想像するしかない。

 絶望的な状況から文字通りの「生還」は、免田さんの不屈の精神とキリスト教の信仰、それに生来の明るさが支えたのだろうと、その人柄に触れて思った。岩永芳人

「組長を撃った男」鳴海清の死体は背中の天女で特定された

「組長を撃った男」鳴海清の死体は背中の天女で特定された

40年以上にわたり最前線で暴力団を取材し続けてきたジャーナリスト・溝口敦氏は、新刊『抗争』(小学館101新書)の中で、大阪戦争とよばれる暴力団抗争で田岡一雄・山口組三代目組長を撃った鳴海清・大日本正義団組員の壮絶な最期(1978年)について、こう紹介している。

9月17日、神戸市六甲山中の瑞宝寺谷でハイカーが男の死体を発見した。当初、死体は鳴海と特定できず、単に鳴海かもしれないといわれた。

 ガムテープでぐるぐる巻きにされた死体は連日の暑さで腐乱し、ウジがわいていた。顔は白骨化し、指先は崩れて指紋採取は不可能だった。背中に天女の刺青らしきものも見えたが、肉眼での判別は難しかった。

 加えて前歯四本が折られ、手指の爪は右手の三本を残して抜かれ、右足の爪もはがされていた。少年院時代に真珠二個を埋めたという性器は無事だったが、これで鳴海と特定はできない。ものを言ったのは背中の刺青の赤外線写真と腹巻きの中のお守りに入れられた子供の写真だった。

 大阪・西成の彫り師は写真を見て、1972年、一年がかりで彫った鳴海のものに間違いないと認め、鳴海の内妻は彼との間に生まれた長男、長女のスナップ写真だと、泣きながら答えた。

 解剖してみると、鳴海の胃からは菜っ葉と飯粒の他に出ず、遺体の損傷振りから鳴海への虐待、リンチが推定された。鳴海は誰に、どう殺されたのか。兵庫県警は鳴海を匿った忠成会が鳴海を手に余し、殺したものと推定した。(中略)

 兵庫県警は鳴海を後ろ手に縛っていた手拭いから生産地を三木市と特定し、忠成会幹事長・衣笠豊ら五人を鳴海の殺害容疑で逮捕したが、その後最高裁で殺人について無罪が確定、誰が鳴海を殺したか犯人不明のまま1993年、時効を迎えた。
鳴海清(昭和歴史の男)

松田雅夫 テープ

松田雅夫 テープ

妻と娘を殺害後、自分の自殺の瞬間までを録音して残した松田雅夫
男は自分の死に場所を求めて旅に出る。行く先々で自分の気持ちをテープに録音しているが、その録音は自分の自殺の瞬間まで記録されていた。

妻と娘を殺害後、松田雅夫が自殺をするまで記録されたテープの事件内容

平成6年11月14日、東京都葛飾区 西新小岩の公団住宅の賃貸マンションの一室から、母(49)と娘(23)の二人の他殺死体が発見された。数日前から、電話をかけても出ないことを不審に思った親族が、この部屋を訪ねて発見したのだ。

母の遺体は、四畳半の部屋に敷かれた布団の上で、顔にはバスタオルが、身体には夏用の薄い布団がかけられていた。首にはロープなどで絞められたような跡がくっきりと残っており、寝ているところを絞殺したものとみられた。

娘の遺体は、自室のベッドの上に横たえられており、布団がかけてあった。母と同じように首に絞められた跡が残っていた。

しかしこの家庭の夫である松田雅夫(まさお = 50歳)は行方不明となっていた。この事件は結果的には一家無理心中である。自分の妻・良子(よしこ)と娘・恵(めぐみ)の二人を殺害した雅夫は、現場である自宅から逃走し、この後宛てのない旅に出た。

雅夫は、最終的には長野県のホテルで首を吊って自殺しているのだが、この事件が特殊なのは、雅夫が逃走の最中、自分の気持ちを随所でカセットテープに録音していることである。録音時間は全部で約40分。そしてその録音は最後に自分が首を吊る瞬間で終わっていた。

松田雅夫の殺害の動機と状況の告白

松田雅夫は、平成3年、47歳の時に、それまで務めていた「ソニーミュージックエンターテイメント」を退職し、自分で会社を起こした。自分の趣味であり、大好きだったクラシック音楽を扱うソフト製作会社で、事務所も構え、自家用車もベンツを乗りまわす毎日だった。しかし見かけとはうらはらに、会社の経営は困難を極めていた。

元々市場が大きいとはいえないクラシックの世界で需要がそうあるわけではなく、借金に借金を重ね、その額は2800万円にもなっていた。そして三年で事業は破綻した。

妻と娘を殺害したのは11月10日の朝。この日は、金融機関への支払いの第一回目の日となっていた。この日に700万円払わなくてはならない。金の準備に万策尽き、雅夫は一家無理心中を選んだ。

自殺に至るテープはまず、「はい、松田雅夫が喋っています。こんなことをする気はなかったんですけれども、いくら手紙を書いてもしょうがありませんし、自分の気持ちを正直に言うにはこれが一番いいかな、と思って、思いついたように喋っています。」

といった口調で始まり、この中で資金に困っていたことにも触れている。「資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命やったんですけれども、結局最終的には11月10日に間に合わない、と。

翌11日からは、もう矢のような催促が来るわけですし、捕まってしまえば逃げられなくなりますから、どうしても10日のうちに決めてしまわなければならない、と。」決めてしまわなければならない、とは即(すなわ)ち、二人を殺して自分の死ぬ、ということを意味していた。

殺害した時のことについては、「10日の早朝に良子を、それから恵に対しては『母さん、病気でちょっと寝てるから、ちょっとそっとしておいてくれ』というような形にして恵と一回対峙(たいじ)してですね、それで朝食も食べ終わり、彼女の後ろから、カミさんと同じロープで絞殺した、というわけです。」この日の朝、近所の人が女性の「助けてーっ」という声を聞いている。まだ寝ている良子さんを布団で殺害し、娘である恵さんは台所で殺し、遺体はベッドまで運んだ。

雅夫はすぐに後追い自殺はせずに、この後旅に出る。殺した二人のことを思うと、生前みんなで旅行に行った時に「あそこにも行きたいね、ここにも行ってみたいね。」といった会話を思い出し、死ぬのはいつでも出来るから、彼女らが生前、行ってみたいと言ってたところを時間の許す限りまわってみようと思った、という発言をテープの中でしている。

殺害後、旅に出発した松田雅夫

二人の遺髪を持ち、自家用車である白のベンツに乗って出発する。最初に訪れたのは神田駿河台(するがだい)にある「山の上ホテル」である。ここは御茶ノ水駅前にある雅夫の会社からわずか300mくらいの距離である。肉マンのおいしい、このホテルに泊まってみたい、と彼女らが以前言っていたことがあったからだ。

ここで一泊して、翌日は車で名古屋へ向かう。名古屋から飛行機で海外へ行くつもりだったのだが、途中で心変わりして、「日本にもまだ見てないところがいっぱいあるし、日本の良さもまだそんなに知っていないんだし・・」と、テープにも予定変更のメッセージが残っている。名古屋で一泊し、次は伊豆半島の下田へ。下田プリンスホテルで一泊し、箱根では箱根プリンス、その後は富士山を巡る。

「富士山を近くで見たいと、太平洋の側から見せてあげたいなあ、と思ったからですね。」

旅に出て4日目の11月14日。この日に東京で良子と恵の死体が発見される。当日雅夫は富士ビューホテルに宿泊している。

「朝はもう、ほーんとに信じられないくらい美しい富士山を見ることが出来ました。」
「富士山に関しては、一番いい姿を見せてあげられたんじゃないかな、と思います。」

随所に、まるで家族三人で旅行をしているかのような発言がある。また、その逆に、自らの死を意識した発言もある。

「私としてはですね、死に場所をいつも求めていたわけですね。10日、殺害に使いました物を、テレビ用のアンテナコードですね、常にいつも持ちまして死ぬ用意をしておりました。それ一本では足りないと思いまして、白の、倍くらいの長さのコードも常に持参しておりました。」

また、この時点ではすでに事件は発覚しているわけだから、警察に関しても注意を払っている。
「パトカーに停止されたら、華々しく事故死でもしてやろうかと思いましてですね。私、助手席にいつも、えー、ガソリンは買えないものですから、メチルアルコール三本とですね、後ろの席にはベンジンを三本の、ペットボトルというんですか、置いておきました。パトカーから停められても、ライターを擦(す)ればいい、と。」

「死に対する恐怖はありませんでしたけれども、逆に言うと、死に対して憧(あこが)れのような気持ちで走っていたのは確かです。」

自殺を決行するも失敗した松田雅夫のテープの記録

15日。奈良に到着する。宿泊先は皇室も使用している一流ホテルであり、ここは娘の恵が「一度泊まってみたい」と言っていたホテルでもある。

「私は、もうそこで最後にしようということを心に誓っておりましたものですから。」と、ここで旅も終了し、このホテルで死ぬ決心をしている。夜、ホテルで最後の儀式を行う。「私は良子と恵の分の食事も取りまして、二人の遺髪を飾り、花を飾り陰膳(かげぜん)と一緒に最後の食事をしました。まだまだ名残惜しい気持ちでいっぱいでしたけれども・・。」

そしてついに深夜2時ごろ、雅夫は自殺を決行するが、ロープが切れて失敗に終わる。「鴨居(かもい)に、良子と恵に使ったブルーのコードをかけてですね、自分の・・もちろん自分の首にまわして・・(略)私は本当に、全く自然に足の下にあった椅子を蹴ったんですけれども、今、こうしてまだ生きているということ・・。

これをどう説明したらいいのか分かりませんけれども、とにかく私は、あのー、その後、突然ですね、時間が長いのか、時間が短いのか、一瞬なのか、一時間、三時間以上経ったのか、全く覚えていませんけれども・・。」

「首吊りの途中でヒモが切れて、そしてテレビコードが切れて下に落ちてしまったんですね。真下に落ちたといっても、その周りはですね、とりあえず、あのー、自殺者特有の便ですとか、尿ですとか、それが全部外に出ているわけですから、とくかく、もう豚小屋みたいなもんですね。その上でもって、つるつるすべるわけですから、あっちこっちにぶつかって当然なんですけれども、まあ、その中で三、四時間、自分を取り戻すのに精一杯でしたけれども。」

「ただ、チェックアウトの時間が11時だってことだけは薄々感じてましたので、時計を見たら10時40分くらいだと思いますから、もちろん、それまで、かなり以上片付けてありましたけれども、まあ、手短に身支度をしまして、逃げるように出てきたわけです。」

首を吊る前にかなり酒を飲み、実行したのだが、結果は失敗し、首や手、ヒザや顔に激痛を負(お)ってホテルを出た。この後、5時間ほど車の中で横たわり、回復を待つ。

「うん、これは一回目は死なしてくれないんだなあ、と。当然私も良子と恵の二人を絞殺しているわけですから、一回の自殺で許してもらえないことは当たり前ですから、もう一度チャレンジしよう、と。」

松田雅夫が、二度目の自殺を決行

雅夫は、再び死に場所を求めて旅立つ。頭に浮かんだのは、自分の故郷である松本だった。ベンツに乗り込み、夜通し走って故郷を目指す。長野県に入ったのは17日の早朝だった。長野県塩尻市の山間部にあるホテルに宿をとった。

だがこの日は自殺には至っていない。
「その日は、絶対に、今度は失敗したくないなあ、という思いがやっぱり強く出てしまいまして、白いコードだけではどうしても不安にならざるを得ませんでしたので、17日、つまり昨夜は決行を諦めました。

丈夫なロープと、それから部屋を汚さないためのシートと、いろいろ買ってきて一日遅いけれども、万全の形で決行しようと、今日18日の深夜に至っているわけであります。」この後は、先に殺害した妻と娘に対して謝罪の言葉が続く。そしていったん録音を止め、自殺の準備が整ってから再び録音が始まっている。これ以降は小型のマイクを胸元に装着して録音したらしい。

再開された録音は、なぜかここからずいぶんとノイズが入っている。バックの方で「ゴー・・」という音が延々と続く。

「全ての準備が整いましたので、私はこれから一人で、良子と恵の後を追いたいと思います。うーん、正直言ってちょっと怖いですね。一回目の時にスムーズにいってくれれば今ごろは終わっていたと思いますけれども、でも二人をこの手で殺したんですから、二回やるくらいの死ぬ苦しみをしないことには許してもらえないでしょう。」

深呼吸のようなものをしたり、息使いが荒くなったりしながらも録音は続く。「気分を落ち着けるためにビールを一杯飲みます。情けないですね・・はぁぁ・・ふぅ・・」

「良子と恵が『いつまでウジウジしてんよ、早くおいでよ。』なんて言ってるような感じがします。そのすぐ傍(かたわ)らまで迎えに来ているような感じです。本当に死んでも悔いがないし、何もないし。一番大事な二人が先にいっているんですから、思い残すことは何もないはずなのに、気が小っちゃいんでしょうね、うん・・ふぅぅぅ・・今度こそ、死にたい。」

「今日は強いロープを二重にして、ぶらさがっても大丈夫な梁(はり)につけておりますから。もっと早いうち、死ねますから。排尿の中、動き回るということはないと思います。

今日はホテルに迷惑がかからないように普通の支度をしてますから排尿の屎尿(しにょう)は全部靴下ズボンの中に入るはず。あっ、そうか、靴下をもう一枚重ねておこう。その方が迷惑がかからない。一枚だと染み出してしまう。二枚履いとけば・・はあー・・ふうー・・。」

なかなか決断がつかず、荒い息使いが聞こえる。恐怖に耐えながら時間が過ぎていく。

「最後に間違えないようにしないと・・ふー・・一切が完了します。鏡台の上に乗って・・今・・落ちます・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「・・ここで死にます。思いっきり・・ふーっ・・死ねましたか・・ふーっ・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「はい、・・ふーっ・・良子、恵、今から待っててくれっ。」
「絶対死なせてくれよ、頼むなっ!」

この直後、「うわぁっ!」という絶叫が聞こえ、これ以降の録音はない。後はゴーッという雑音がしばらく続いてテープは終わる。

翌日19日、ホテルの従業員によって雅夫の遺体は発見された。雅夫は生前、「松田家の墓」として親族と共に墓を購入していたが、その墓に入ったのは結局雅夫一人だけである。親族が別に墓を建て、妻と娘の遺骨は、そちらの方へ葬られた。親族たちは、雅夫と良子、恵を一緒に埋葬することを、拒否したのである。
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