カミカゼニュース

日本事件簿

秋葉原無差別殺傷事件に思う、勉強の意味

秋葉原無差別殺傷事件に思う、勉強の意味

数年前、東京秋葉原で無差別殺傷という悲しい事件がありました。はじめに犠牲者の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。またその関係者の方に、お悔やみ申し上げます。 このような事件が、二度と起こらないような社会にしなければなりません。そのために、この事件で考えたこと思ったことを教育の側面から書きたいと思います。
akihabara20080001akihabara201712030001

秋葉原無差別殺傷事件の加藤容疑者が携帯サイトに書き込んだ内容

下記のものは、事件前の6月4日に秋葉原無差別殺傷事件の加藤容疑者本人が、携帯サイトに書き込んだとみられるもの。
(読売新聞6月10日からの抜粋)

5時51分 親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧
5時52分 親が周りに自分の息子を自慢したいから完璧に仕上げたわけだ
5時53分 中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた
5時55分 中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けた。中学から始まった英語が極端に悪かったけど、他の科目で十分カバーできてたし
5時57分 当然、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ高校出てから8年、負けっ放しの人生
5時58分 自分で頑張った奴に勝てるわけない
akihabara0001akihabara201712030002

秋葉原無差別殺傷事件は親に対する復讐

この書き込みを見て、私は、この事件は、親に対する復讐なのではないかと思った。それほど、この書き込みには、子どもと親の断絶が感じられるし、子どもの親に対する憎しみが、感じられる。

加藤容疑者の両親は、教育熱心だった。この書き込みを見ると「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」と親の勉強に対する強い関与と子ども時代に勉強等で注目を受けたことが書いてある。

多分、その頃の加藤容疑者は、そんな自分と親の関係をそれほど気にしていなかったのではないだろうか。いや、むしろ歓迎していたのではないだろうか。しかし、中学生になってからは、その親の勉強に対する強い関与だけでは、小学校時代のように上手くはいかなくなった。そして、犲慢の息子瓩涼楼未ら段々外されていったのだろう。

だから、彼は、「中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた」と書いたのだ。この頃から、徐々に操り人形としての自分から脱却しようとしたのだろう。高校進学でもきっと彼には葛藤があった。このままでは、親の期待には応えられないと。

しかし、親の期待と自分のプライドで、県内トップ高校へ進学したのだが、高校生になってからは、学力競争についていけずに、劣等感が植え付けられていったのかもしれない。そして、大学進学では、親から決別することになる。もう、親の言うことを聞く必要がないからだ。落ちこぼれの自分に親は必要ないと思ったのだろう。彼の優越感や劣等感の源泉も実は親の評価であったのかもしれない。

今回の書き込みは、大人になってから子ども時代を振り返り、その時点で考えていることだ。あの頃、親の操り人形になっていなかったら、こうなっていなかったという思いが感じられる。親の言いなりになって、したくもない勉強をやらされていた自分が、勉強を「自分で頑張った奴に勝てるわけない」と振り返っているのだ。

この事件は、人生に負け続けた人間が、その人生の最後で、誰かに注目されたいという思いが、起こさせたものかもしれないし、最後の彼の自己顕示欲が起こしたものかもしれないが、彼のこういう人生を決定付けた両親に対する復讐だと思えなくもない。

親にしてみれば、良かれと思って、教育に強く関与したのだ。こんな結末では、親も救われないだろうし、子どもである加藤容疑者自身も救われるものでない。
akihabara0003akihabara201712030003

勉強の意味とは勉強自体が自律するための道具になる

私は、勉強は子どもが自律するための道具と考えている。勉強ができるようになることが教育の目的なのではない。勉強は、子ども時代に目の前にある課題なのだ。その目の前にある課題に誠実に取り組むことを子どもに要求するだけだ。勉強の結果を評価するために、勉強をさせるのではない。勉強を競争の道具にしてはいけない理由もここにあるのだ。自律を促すものが、勉強以外にあるのならば、それでもいい。その程度のものが勉強だ。そう考えて見ることも重要なことだ。

もう一度確認して終わりたい。学校で優秀な成績をとることが勉強する目的ではない。勉強ができる、できないを親が評価して、子ども達の優越感や劣等感の源泉にしてはいけないのだ。

そのために、勉強をどう考えるかを私たちは、もう一度問い直してみることだ。大人になってからも、勉強することができるようにしてあげればよいし、それが認められる仕組みがあればいい。

その程度のものなのだ。勉強なんて。

秋葉原通り魔事件 行当時25歳 加藤智大

秋葉原通り魔事件 あきはばら とおりまじけんとは、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。マスメディアや本件に言及した書籍においては秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれることが多い。

人命を奪った犯人の行動は決して正当化し得ないはずであるが、当時の匿名電子掲示板上では、犯罪の動機が明らかにならない内は、犯人を「格差社会の英雄」などと持て囃す投稿が多数見られた。

秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大の弟の現在

『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることを諦めようと決めました。
死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」
これは『週刊現代』の「独占スクープ!『秋葉原連続通り魔事件』そして犯人(加藤智大被告)の弟は自殺した」の中で、週刊現代記者の齋藤剛氏が明かしている加藤被告の実の弟・加藤優次(享年28・仮名)の言葉である。

この1週間後、優次は自ら命を断った。これを読みながら涙が止まらなかった。加藤被告の起こした犯罪のために、被害者の遺族の人たちは塗炭の苦しみを味わっている。だが、加害者の家族も苦しみ、離散し、弟は兄の犯した罪に懊悩し、ついには自裁してしまったのだ。

日本の犯罪史上まれに見る惨劇「秋葉原連続通り魔事件」が起きたのは2008年6月8日の日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2トントラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って7人もの命を奪った。

弟は兄が犯した事件によって職を失い、家を転々とするが、マスコミは彼のことを放っておいてはくれなかった。就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければならなかった。そんな暮らしの中にも、希望がなかったわけではなかったという。事件から1年余りが過ぎた頃、筆者が彼のアパートを訪ねようとしたとき、たまたま女性と一緒に歩く姿を目撃したそうだ。優次は彼女に事件のことも話していたという。
正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。一度喋り出したら、後は堰を切ったように言葉が流れてました。
彼女の反応は『あなたはあなただから関係ない』というものでした
ようやく心を開いて話ができる異性との出会いは、彼に夢を与えてくれたのだろう。しかし、優次の夢は叶うことはなかった。事情を知りつつ交際には反対しなかった女性の親が、結婚と聞いたとたんに猛反対したというのだ。二人の関係が危うくなり、彼女も悩んでイライラしていたのだろうか、彼女から決定的なひと言が口をついて出たという。
一番こたえたのは『一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は』と宣告されたことです。これは正直、きつかった。彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。
結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、僕は半ば無意識のうちに決意してしまったのです。
(中略)僕は、社会との接触も極力避ける方針を打ち立てました

秋葉原無差別殺傷事件「加害者家族もまた苦しんでいます」面会求める弟、拒否し続けた兄

優次は手記に繰り返しこう書いていたという。<兄は自分をコピーだと言う。その原本は母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる>

そして、<突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある>

そんな言葉を筆者に漏らすようになっていった。母親は事件後、精神的におかしくなり離婚してしまった。父親も職場にいられなくなり、実家へ帰りひっそりと暮らしている。

優次は加害家族も苦しんでいることを知ってほしいと、このように書いている。ここには心からの叫びが吐露されているので、少し長いが引用してみたい。
被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遙かに軽く、取るに足りないものでしょう。(中略)
ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。
そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。
だからこそ、僕は発信します。加害者家族の心情ももっと発信するべきだと思うからです。
それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。(中略)
こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる
彼は兄と面会したいと願い、50通を優に超える手紙を書いたという。だが1度として兄から返事が来たことはなかった。罪を犯した自分より早く逝ってしまった弟のことを知らされたとき、加藤智大被告は何を思ったのだろう。1度でも会ってやればよかった、そう思っただろうか。

「袴田事件」再審決定 袴田 巌元被告、東京拘置所から釈放

「袴田事件」再審決定 袴田 巌元被告、東京拘置所から釈放

1966年6月、一家4人が殺害されたいわゆる「袴田事件」で、静岡地裁は27日、証拠がねつ造された可能性にまで言及し、裁判のやり直しを決定した。
これを受けて袴田 巌元被告(78)は午後5時20分ごろ、東京・小菅の拘置所から釈放され、自分の足で歩いて車に乗り込んだ。

小暮洋史(こぐれ・ひろし)ストーカー行為を働いた挙げ句にターゲット女性の家族を惨殺して逃亡

小暮洋史(こぐれ・ひろし)ストーカー行為を働いた挙げ句にターゲット女性の家族を惨殺して逃亡

群馬一家3人殺害事件(1998年1月)小暮洋史(こぐれ・ひろし)
20131007kogure27_l前回、偶然にも記事掲載後に逮捕された"リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件"の被疑者・市橋達也の取り調べの様子が連日のように報じられ、改めて世間の注目を浴びている。これにより、そのほかの指名手配事件についても情報公開の重要性が見直され、より多くの人々が未解決事件に関心を持つことで事件解決が早まり、さらには犯罪抑止に繋がることを期待したいところだが......現実はそう甘くない。日本全国、毎日どこかで凶悪事件が発生し、依然として逃亡中の犯人・被疑者は大勢いる。あるコメンテーターは、市橋が逮捕される数日前、次のように話していた。

「指名手配というのは単なる管轄外の警察署への通達作業であり、現状では一般市民への情報提供の呼びかけとして有効ではない。一刻も早く犯人を捕まえるために、これからは無数にある人々の目を利用していかなければいけない」

 つまり、既存の指名手配制度を見直し、一般市民レベルまで手配情報が浸透するような新しいシステムを構築しなければいけないという提案である。現状ではどうしてもマスコミに依存する形になってしまっていて、時には歪んだ情報を生んでしまうことも......。本来であれば、警察主動で情報公開・収集を充分な形で行うべきなのである。今後、捜査のあり方がどう変わっていくのか注目していきたい。

 さて、今回取り上げる未解決事件は、「群馬一家3人殺害事件」。1998年1月14日に起こってからすでに12年が経とうとしている。群馬県高崎市(旧群馬町)三ツ寺で電気工事業を営んでいた石井武夫さん(当時48歳)の自宅で、武夫さんをはじめ、妻・千津子さん(当時48歳)、武夫さんの母・トメさん(当時85歳)の3人が惨殺され、すぐに運送会社の元従業員・小暮洋史(こぐれ・ひろし/当時29歳)が全国に指名手配された。事件のなりゆきは、次の通りと見られている。

 商品の運搬のために高崎市内のドラッグストアを訪れた小暮は、同店に勤務していた武夫さんの長女(当時26歳)に一目惚れする。勤務時間以外でも度々出入りするようになり、何度もしつこく食事やデートに誘ったものの、長女に断られ続けて逆上。長女が運転する車を尾行したり、家までつきまとったりしたほか、電話を執拗にかけてきたという。そして、ストーカー行為は次第にエスカレートしていき、ついに数カ月後、悪夢のような事件を起こしてしまう。

 事件の数日前、会社の掲示板に「辞めます」とだけ書き残して消えた小暮。突然、石井家を訪れて長女に会わせてほしいと求める。しかし、長女が外出中だったため、家族が断ると......小暮は勝手に家に上がり込み、鋭利な刃物で武夫さんの胸、千津子さんの背中を刺して殺害。そして最後に、抵抗することもできないトメさんの首を絞めて殺害。当時の報道によると、小暮は大量の血を流して亡くなった武夫さん夫妻の遺体を、浴槽に運んで片付け、長女の帰りを待っていたという。数時間後、家に戻った長女の目に映った悲惨な光景は、まさに悪夢そのものであっただろう。それでも、小暮に対して説得を試み、自らの命を守ることができたのは、並々ならぬ精神力があってこそと言える。小暮はしばらくの間、長女と現場に留まっていたが、やがて何かを諦めたかのように石井家をあとにして、乗りつけていた自分の車で逃走したという。ここまでが、生き残った長女の証言、そして警察の発表をもとにした事件の概要である。

 先述の通り、警察によって全国指名手配された小暮は、国道50号線を茨城方面に向かって逃走。1週間後には群馬県太田市と埼玉県熊谷市(旧妻沼町)で小暮の車が目撃されたが、それ以降の消息はつかめていない。事件の直前、小暮は知人に「警察に見つからずに死ぬ方法がある」と話していたという証言から、警察は自殺の線を追って各地の要所を捜索したとされているが、現在まで痕跡すら発見できていない。

"自殺説"を真に受けてか、それとも長期間に渡って手がかりが得られないためか、群馬県警高崎署のホームページに掲載されている指名手配情報は、ほかの凶悪事件に比べて写真や情報量が異様に少ない。冒頭に記した市橋の場合は、事件詳細のほか、何十種類もの顔写真と全身写真、本人の肉声、多岐に渡る個人情報、プロファイリングの専門家による性格分析、そして破格の懸賞金1,000万円......など、「絶対に逮捕してやる!」という強い信念が印象に残る情報公開・捜査を行っていた。被害者が外国人だったから、という理由だけで片付けてしまうのは、いささか短絡的ではないか。そもそも、前述の"自殺"をほのめかす証言にしても、犯行後の逃走を考えた上での伏線とも取れるし、車などは少し金をかければいくらでもスクラップにできる。過去、多くの犯罪者が時効まで逃げ切っていることを考えても、確実に死亡確認が取れるまでは追い続けなければいけない凶悪事件の被疑者なのだ。

 愛する家族が犠牲になった長女の無念さは、いつまでも晴れることはないだろう。願わくば、犯人の影に怯えることなく、穏やかに眠れる日が1日でも早く訪れてほしい。

小暮洋史(こぐれ・ひろし)プロフィール

被疑者:小暮洋史(こぐれ・ひろし)
生年月日:1969年7月31日
本籍:群馬県
身長:170cm前後
逃亡時の使用車両/日産・シルビア(ナンバー「群馬33 も 8670」)
公訴時効成立:2013年1月14日

再審無罪から30年免田栄さん(87) 過酷な体験でしたね? 世間も冤罪に目が開けた【冤罪事件】

再審無罪から30年免田栄さん(87) 過酷な体験でしたね? 世間も冤罪に目が開けた【冤罪事件】

2013083120130324-239537-1-N死刑判決を受けた免田栄さん(87)が再審無罪となり、釈放されたのは1983年7月。まもなく30年を迎えるが、逮捕から無罪まで、免田さんは34年間も身柄を拘束された。自由の身になってからよりも拘置所にいた時間の方がまだ長い。福岡県大牟田市の自宅を訪ね、日本の司法への今の思いや近況を聞いた。

 ――どうお過ごしですか。

 「何もしとらんのですが、体は丈夫で、自転車にも乗ります。この間は、子どもが野球をしてたからノックした。暖かくなれば、近くの川でウナギを捕ります」

 ――なぜ大牟田に住んだのですか。

 「釈放された後に結婚した家内が大牟田に家を持っとったから。炭鉱の労働者の町で、気遣いもせんでよかった」

 ――熊本では気遣いが多かったですか。

 「やっぱり顔を知られとるからね。町を歩くと、(出会う人が)後ろで指さす。目つきが悪いとか、刑務所から出て来た人間は歩き方まで違うとか、そういう目で見る。大牟田でも最初はありました。しばらくはきつかったですね」

 ――34年ぶりの世の中は変わっていたでしょう。

 「私は60歳近くになり、世の中は食料が豊かで、服が違い、人も変わっていた」

 ――拘置所にいた頃の夢を見るそうですね。

 「刑場に向かう死刑囚の夢を見ます。福岡の拘置所では、2階の部屋から、運動場の向こうの刑場に入る者が見えた。振り返って、縛られた両手をちょっと挙げて、私たちに合図して入って行く。笑っているんですよね。先に行って待っとるけんって言うて。私もいつやられるか。その覚悟はしておりました」

 ――冤罪(えんざい)を生んだ警察や検察、裁判所への怒りは。

 「許せんと思う一方、彼らのやったことも分かる。刑事でも、弁護士でも、ヤミで食料を買わんと生活できんような混乱した時代だったから。今のように弁護士がついて、きちんとやってくれていたら、私はすぐに解放されていたと思う」

 ――拘置所でキリスト教に入信されたんですね。

 「洗礼を受けました。今でも、朝夕は床の中で祈る。だから悪かことができんのです(笑)。(聖書を手に取り)拘置所で大切なところに線を引き、何度も読みました。十字架に架けられたキリストのことを思うと力がわいた。つらい時は今も、聖書の言葉を口にして気持ちを整理します」

 「社会に出てからも、精いっぱい我慢して一生を終わらにゃいかん、と思ってきました。後に続く人たちのためにも、まっすぐ行く道を曲がったらいかんと。でもまあ、30年間、何事もなく来ましたから、良かったんじゃないですか」

 ――大変な人生ですね。

 「死刑が確定して第3次再審請求の受理まで、すぐに執行されるかもしれん数年が大変だった。よお生きてきたと思います」

 「ただ、人間の社会じゃ、やることをやり通したという誇りもあります。この国の司法相手によく闘って、司法が変わった。世間も(冤罪の存在に)目が開けてきた。国民の権利と人権が向上した。苦労もムダじゃなかったなと思っとります」

――逮捕がなかったら、どんな一生だったでしょう。

 「平凡な農民だったでしょう」

――平凡に過ごしたかったですね。

 「いやあ、あの34年はやっぱり、よか勉強になりました(笑)」

 <略歴>1925年11月4日、免田町(現あさぎり町)生まれ。41年、免田尋常高等小学校卒。42年、長崎県大村市にあった海軍航空廠(しょう)に徴用。45年帰郷。49年、強盗殺人容疑で逮捕。52年、最高裁で死刑確定。83年、熊本地裁八代支部の再審で無罪。

 <後記>ドストエフスキーは、社会主義のグループに所属したために死刑を宣告された。処刑は寸前に回避されたが、死のぎりぎりまで追いつめられた経験は、その後のドストエフスキーに大きく影響した。

 免田さんは、ドストエフスキーよりはるかに長い間、身に覚えのない罪で国に殺される可能性があった。その過酷さの本当のところは、「再審の上申書には、1字1字、お願いしますという気持ちを込めた」という免田さんの話から想像するしかない。

 絶望的な状況から文字通りの「生還」は、免田さんの不屈の精神とキリスト教の信仰、それに生来の明るさが支えたのだろうと、その人柄に触れて思った。岩永芳人

「組長を撃った男」鳴海清の死体は背中の天女で特定された

「組長を撃った男」鳴海清の死体は背中の天女で特定された

40年以上にわたり最前線で暴力団を取材し続けてきたジャーナリスト・溝口敦氏は、新刊『抗争』(小学館101新書)の中で、大阪戦争とよばれる暴力団抗争で田岡一雄・山口組三代目組長を撃った鳴海清・大日本正義団組員の壮絶な最期(1978年)について、こう紹介している。

9月17日、神戸市六甲山中の瑞宝寺谷でハイカーが男の死体を発見した。当初、死体は鳴海と特定できず、単に鳴海かもしれないといわれた。

 ガムテープでぐるぐる巻きにされた死体は連日の暑さで腐乱し、ウジがわいていた。顔は白骨化し、指先は崩れて指紋採取は不可能だった。背中に天女の刺青らしきものも見えたが、肉眼での判別は難しかった。

 加えて前歯四本が折られ、手指の爪は右手の三本を残して抜かれ、右足の爪もはがされていた。少年院時代に真珠二個を埋めたという性器は無事だったが、これで鳴海と特定はできない。ものを言ったのは背中の刺青の赤外線写真と腹巻きの中のお守りに入れられた子供の写真だった。

 大阪・西成の彫り師は写真を見て、1972年、一年がかりで彫った鳴海のものに間違いないと認め、鳴海の内妻は彼との間に生まれた長男、長女のスナップ写真だと、泣きながら答えた。

 解剖してみると、鳴海の胃からは菜っ葉と飯粒の他に出ず、遺体の損傷振りから鳴海への虐待、リンチが推定された。鳴海は誰に、どう殺されたのか。兵庫県警は鳴海を匿った忠成会が鳴海を手に余し、殺したものと推定した。(中略)

 兵庫県警は鳴海を後ろ手に縛っていた手拭いから生産地を三木市と特定し、忠成会幹事長・衣笠豊ら五人を鳴海の殺害容疑で逮捕したが、その後最高裁で殺人について無罪が確定、誰が鳴海を殺したか犯人不明のまま1993年、時効を迎えた。
鳴海清(昭和歴史の男)

松田雅夫 テープ

松田雅夫 テープ

妻と娘を殺害後、自分の自殺の瞬間までを録音して残した松田雅夫
男は自分の死に場所を求めて旅に出る。行く先々で自分の気持ちをテープに録音しているが、その録音は自分の自殺の瞬間まで記録されていた。

妻と娘を殺害後、松田雅夫が自殺をするまで記録されたテープの事件内容

平成6年11月14日、東京都葛飾区 西新小岩の公団住宅の賃貸マンションの一室から、母(49)と娘(23)の二人の他殺死体が発見された。数日前から、電話をかけても出ないことを不審に思った親族が、この部屋を訪ねて発見したのだ。

母の遺体は、四畳半の部屋に敷かれた布団の上で、顔にはバスタオルが、身体には夏用の薄い布団がかけられていた。首にはロープなどで絞められたような跡がくっきりと残っており、寝ているところを絞殺したものとみられた。

娘の遺体は、自室のベッドの上に横たえられており、布団がかけてあった。母と同じように首に絞められた跡が残っていた。

しかしこの家庭の夫である松田雅夫(まさお = 50歳)は行方不明となっていた。この事件は結果的には一家無理心中である。自分の妻・良子(よしこ)と娘・恵(めぐみ)の二人を殺害した雅夫は、現場である自宅から逃走し、この後宛てのない旅に出た。

雅夫は、最終的には長野県のホテルで首を吊って自殺しているのだが、この事件が特殊なのは、雅夫が逃走の最中、自分の気持ちを随所でカセットテープに録音していることである。録音時間は全部で約40分。そしてその録音は最後に自分が首を吊る瞬間で終わっていた。

松田雅夫の殺害の動機と状況の告白

松田雅夫は、平成3年、47歳の時に、それまで務めていた「ソニーミュージックエンターテイメント」を退職し、自分で会社を起こした。自分の趣味であり、大好きだったクラシック音楽を扱うソフト製作会社で、事務所も構え、自家用車もベンツを乗りまわす毎日だった。しかし見かけとはうらはらに、会社の経営は困難を極めていた。

元々市場が大きいとはいえないクラシックの世界で需要がそうあるわけではなく、借金に借金を重ね、その額は2800万円にもなっていた。そして三年で事業は破綻した。

妻と娘を殺害したのは11月10日の朝。この日は、金融機関への支払いの第一回目の日となっていた。この日に700万円払わなくてはならない。金の準備に万策尽き、雅夫は一家無理心中を選んだ。

自殺に至るテープはまず、「はい、松田雅夫が喋っています。こんなことをする気はなかったんですけれども、いくら手紙を書いてもしょうがありませんし、自分の気持ちを正直に言うにはこれが一番いいかな、と思って、思いついたように喋っています。」

といった口調で始まり、この中で資金に困っていたことにも触れている。「資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命やったんですけれども、結局最終的には11月10日に間に合わない、と。

翌11日からは、もう矢のような催促が来るわけですし、捕まってしまえば逃げられなくなりますから、どうしても10日のうちに決めてしまわなければならない、と。」決めてしまわなければならない、とは即(すなわ)ち、二人を殺して自分の死ぬ、ということを意味していた。

殺害した時のことについては、「10日の早朝に良子を、それから恵に対しては『母さん、病気でちょっと寝てるから、ちょっとそっとしておいてくれ』というような形にして恵と一回対峙(たいじ)してですね、それで朝食も食べ終わり、彼女の後ろから、カミさんと同じロープで絞殺した、というわけです。」この日の朝、近所の人が女性の「助けてーっ」という声を聞いている。まだ寝ている良子さんを布団で殺害し、娘である恵さんは台所で殺し、遺体はベッドまで運んだ。

雅夫はすぐに後追い自殺はせずに、この後旅に出る。殺した二人のことを思うと、生前みんなで旅行に行った時に「あそこにも行きたいね、ここにも行ってみたいね。」といった会話を思い出し、死ぬのはいつでも出来るから、彼女らが生前、行ってみたいと言ってたところを時間の許す限りまわってみようと思った、という発言をテープの中でしている。

殺害後、旅に出発した松田雅夫

二人の遺髪を持ち、自家用車である白のベンツに乗って出発する。最初に訪れたのは神田駿河台(するがだい)にある「山の上ホテル」である。ここは御茶ノ水駅前にある雅夫の会社からわずか300mくらいの距離である。肉マンのおいしい、このホテルに泊まってみたい、と彼女らが以前言っていたことがあったからだ。

ここで一泊して、翌日は車で名古屋へ向かう。名古屋から飛行機で海外へ行くつもりだったのだが、途中で心変わりして、「日本にもまだ見てないところがいっぱいあるし、日本の良さもまだそんなに知っていないんだし・・」と、テープにも予定変更のメッセージが残っている。名古屋で一泊し、次は伊豆半島の下田へ。下田プリンスホテルで一泊し、箱根では箱根プリンス、その後は富士山を巡る。

「富士山を近くで見たいと、太平洋の側から見せてあげたいなあ、と思ったからですね。」

旅に出て4日目の11月14日。この日に東京で良子と恵の死体が発見される。当日雅夫は富士ビューホテルに宿泊している。

「朝はもう、ほーんとに信じられないくらい美しい富士山を見ることが出来ました。」
「富士山に関しては、一番いい姿を見せてあげられたんじゃないかな、と思います。」

随所に、まるで家族三人で旅行をしているかのような発言がある。また、その逆に、自らの死を意識した発言もある。

「私としてはですね、死に場所をいつも求めていたわけですね。10日、殺害に使いました物を、テレビ用のアンテナコードですね、常にいつも持ちまして死ぬ用意をしておりました。それ一本では足りないと思いまして、白の、倍くらいの長さのコードも常に持参しておりました。」

また、この時点ではすでに事件は発覚しているわけだから、警察に関しても注意を払っている。
「パトカーに停止されたら、華々しく事故死でもしてやろうかと思いましてですね。私、助手席にいつも、えー、ガソリンは買えないものですから、メチルアルコール三本とですね、後ろの席にはベンジンを三本の、ペットボトルというんですか、置いておきました。パトカーから停められても、ライターを擦(す)ればいい、と。」

「死に対する恐怖はありませんでしたけれども、逆に言うと、死に対して憧(あこが)れのような気持ちで走っていたのは確かです。」

自殺を決行するも失敗した松田雅夫のテープの記録

15日。奈良に到着する。宿泊先は皇室も使用している一流ホテルであり、ここは娘の恵が「一度泊まってみたい」と言っていたホテルでもある。

「私は、もうそこで最後にしようということを心に誓っておりましたものですから。」と、ここで旅も終了し、このホテルで死ぬ決心をしている。夜、ホテルで最後の儀式を行う。「私は良子と恵の分の食事も取りまして、二人の遺髪を飾り、花を飾り陰膳(かげぜん)と一緒に最後の食事をしました。まだまだ名残惜しい気持ちでいっぱいでしたけれども・・。」

そしてついに深夜2時ごろ、雅夫は自殺を決行するが、ロープが切れて失敗に終わる。「鴨居(かもい)に、良子と恵に使ったブルーのコードをかけてですね、自分の・・もちろん自分の首にまわして・・(略)私は本当に、全く自然に足の下にあった椅子を蹴ったんですけれども、今、こうしてまだ生きているということ・・。

これをどう説明したらいいのか分かりませんけれども、とにかく私は、あのー、その後、突然ですね、時間が長いのか、時間が短いのか、一瞬なのか、一時間、三時間以上経ったのか、全く覚えていませんけれども・・。」

「首吊りの途中でヒモが切れて、そしてテレビコードが切れて下に落ちてしまったんですね。真下に落ちたといっても、その周りはですね、とりあえず、あのー、自殺者特有の便ですとか、尿ですとか、それが全部外に出ているわけですから、とくかく、もう豚小屋みたいなもんですね。その上でもって、つるつるすべるわけですから、あっちこっちにぶつかって当然なんですけれども、まあ、その中で三、四時間、自分を取り戻すのに精一杯でしたけれども。」

「ただ、チェックアウトの時間が11時だってことだけは薄々感じてましたので、時計を見たら10時40分くらいだと思いますから、もちろん、それまで、かなり以上片付けてありましたけれども、まあ、手短に身支度をしまして、逃げるように出てきたわけです。」

首を吊る前にかなり酒を飲み、実行したのだが、結果は失敗し、首や手、ヒザや顔に激痛を負(お)ってホテルを出た。この後、5時間ほど車の中で横たわり、回復を待つ。

「うん、これは一回目は死なしてくれないんだなあ、と。当然私も良子と恵の二人を絞殺しているわけですから、一回の自殺で許してもらえないことは当たり前ですから、もう一度チャレンジしよう、と。」

松田雅夫が、二度目の自殺を決行

雅夫は、再び死に場所を求めて旅立つ。頭に浮かんだのは、自分の故郷である松本だった。ベンツに乗り込み、夜通し走って故郷を目指す。長野県に入ったのは17日の早朝だった。長野県塩尻市の山間部にあるホテルに宿をとった。

だがこの日は自殺には至っていない。
「その日は、絶対に、今度は失敗したくないなあ、という思いがやっぱり強く出てしまいまして、白いコードだけではどうしても不安にならざるを得ませんでしたので、17日、つまり昨夜は決行を諦めました。

丈夫なロープと、それから部屋を汚さないためのシートと、いろいろ買ってきて一日遅いけれども、万全の形で決行しようと、今日18日の深夜に至っているわけであります。」この後は、先に殺害した妻と娘に対して謝罪の言葉が続く。そしていったん録音を止め、自殺の準備が整ってから再び録音が始まっている。これ以降は小型のマイクを胸元に装着して録音したらしい。

再開された録音は、なぜかここからずいぶんとノイズが入っている。バックの方で「ゴー・・」という音が延々と続く。

「全ての準備が整いましたので、私はこれから一人で、良子と恵の後を追いたいと思います。うーん、正直言ってちょっと怖いですね。一回目の時にスムーズにいってくれれば今ごろは終わっていたと思いますけれども、でも二人をこの手で殺したんですから、二回やるくらいの死ぬ苦しみをしないことには許してもらえないでしょう。」

深呼吸のようなものをしたり、息使いが荒くなったりしながらも録音は続く。「気分を落ち着けるためにビールを一杯飲みます。情けないですね・・はぁぁ・・ふぅ・・」

「良子と恵が『いつまでウジウジしてんよ、早くおいでよ。』なんて言ってるような感じがします。そのすぐ傍(かたわ)らまで迎えに来ているような感じです。本当に死んでも悔いがないし、何もないし。一番大事な二人が先にいっているんですから、思い残すことは何もないはずなのに、気が小っちゃいんでしょうね、うん・・ふぅぅぅ・・今度こそ、死にたい。」

「今日は強いロープを二重にして、ぶらさがっても大丈夫な梁(はり)につけておりますから。もっと早いうち、死ねますから。排尿の中、動き回るということはないと思います。

今日はホテルに迷惑がかからないように普通の支度をしてますから排尿の屎尿(しにょう)は全部靴下ズボンの中に入るはず。あっ、そうか、靴下をもう一枚重ねておこう。その方が迷惑がかからない。一枚だと染み出してしまう。二枚履いとけば・・はあー・・ふうー・・。」

なかなか決断がつかず、荒い息使いが聞こえる。恐怖に耐えながら時間が過ぎていく。

「最後に間違えないようにしないと・・ふー・・一切が完了します。鏡台の上に乗って・・今・・落ちます・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「・・ここで死にます。思いっきり・・ふーっ・・死ねましたか・・ふーっ・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「はい、・・ふーっ・・良子、恵、今から待っててくれっ。」
「絶対死なせてくれよ、頼むなっ!」

この直後、「うわぁっ!」という絶叫が聞こえ、これ以降の録音はない。後はゴーッという雑音がしばらく続いてテープは終わる。

翌日19日、ホテルの従業員によって雅夫の遺体は発見された。雅夫は生前、「松田家の墓」として親族と共に墓を購入していたが、その墓に入ったのは結局雅夫一人だけである。親族が別に墓を建て、妻と娘の遺骨は、そちらの方へ葬られた。親族たちは、雅夫と良子、恵を一緒に埋葬することを、拒否したのである。

栗田源蔵 連続8人殺害事件

栗田源蔵 連続8人殺害事件

5年間で8人を殺害した栗田源蔵という人物は、2つの事件において、どちらの事件でも死刑判決を受けた日本ではまれにみる凶悪犯。栗田事件は死刑が執行されている事件であるが、古い事件の為、死刑事件としてではなく、日本事件簿に記録している。
20130723kurita004kurita昭和27年1月13日の夜、千葉県検見川町(現、千葉市)の民家に泥棒がはいり、同家の主婦・鈴木いわさん(当時63歳)と義理の姪・きみさん(当時24歳)が殺害された。さらに、犯人はきみさんを死姦し逃走した。国警千葉本部の現場検証の結果、指紋の押収に成功。この指紋が決定的となり同町の妹夫婦宅で居候をしている秋田県新成村出生の栗田源蔵(当時26歳)を逮捕した。捜査本部は、栗田を同事件で起訴する一方、類似事件の事情聴取を行った。

この類似事件とは、前年の昭和26年8月8日夜、栃木県小山町(現、小山市)の増山宅で乳児を寝かしつけていた妻の文子さん(当時24歳)を絞殺。死姦した後、タンスから衣類などを盗んで逃走した事件。

もう一つは、その二ヵ月後の10月10日夜、千葉県小湊町(現、天津小湊町)の興津駅の待合室で主婦の小林ふゆのさん(当時29歳)が長男(当時5歳)、長女(当時7歳)、次女(当時2歳)を連れ立っているところを「家まで送ってあげる」と栗田が声をかけた。しばらく歩くと『おせんころがし』と呼ばれる海に面した断崖絶壁の場所にさしかかった。ここで栗田は本性を現し、ふゆのさんに乱暴しようとした。驚いた長男が大声を出すと近くにあった石で長男を殴打し海に突き落とした。続いて長女、次女も海に突き落とした後、ふゆのさんに強姦。その後、絞殺して同じく海に突き落とした事件。幸いにも長女だけは、崖の途中にひっかかり一命を取り留めた。この「おせんころがし」の由来は、昔金亡者の父を戒めようと娘のおせんが身を投じた場所と言われ、荒れた海に身を投じると助かる確率はまず無いと言う。

栗田はこの2件の関与を否定。特に「おせんころがし事件」の日は秋田県下で窃盗をはたらいていたと主張した。捜査本部が調べた結果、実際に地元署では栗田を指名手配しており「アリバイがあるように見えた」。
この2件の類似事件とは別に、昭和27年8月13日千葉地裁は検見川の殺人事件に関して死刑判決を栗田に言い渡した。

二度目の死刑判決−栗田源蔵

千葉地裁で死刑判決が出た2ヶ月後の10月に国警栃木本部と小山地区警察の捜査官が収監されている東京拘置所の栗田を訪ねる。改めて小山の文子さん殺害に関して追及。その結果、12月27日までに自供を得る事に成功した。
さらに「おせんころがし事件」でも秋田県下で実際に窃盗したのは知人で、それを聞きつけた栗田が身代わりを約束し、自から犯人になることでアリバイを作っていたことが判明した。栗田はその後、おせんころがし事件も認めた。

この取調べ中、さらに昭和23年2月に二人の女性を殺害していたことも自供した。この女性は村井はつさん(当時17歳)と鈴木芳子さん(当時20歳)で、村井さんと鈴木さんは友人であった。栗田は両方に結婚の約束をしていた。やがて邪魔になった鈴木さんを殺害して静岡県原町(現、沼津市)の海岸に埋めた。村井さんは鈴木さんが失踪したことや嫉妬から、彼女の所在を栗田に聞いた。栗田は「芳子を殺した」と口を滑らせた。焦った栗田は村井さんも絞殺し同じ海岸に埋めたことが判明した。これで栗田は8人の殺害を全て自供した。戦後稀代の殺人鬼である。

宇都宮地裁は、検見川殺人事件以外の3件6人殺しで昭和28年12月21日に二度目の「死刑判決」を言い渡した。昭和29年10月21日栗田は「はやく楽になりたい」と控訴を取り下げ「死刑」を確定させた。

ところが、栗田は「死を受け入れることができなかった」。このため、何度も再審請求の手続きを行う。筋肉隆々で狂暴な栗田は同囚はもとより看守も震え上がったほどの傍若無人な獄中生活を送っていたが、やがて死刑設備がある宮城刑務所に移送されてからは一気に意気消沈。昭和34年10月14日死刑執行。32歳であった。

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

1971年12月から翌72年2月にかけて起きた連合赤軍事件で、殺人・死体遺棄罪などに問われ、1993年に最高裁で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部・永田洋子(ながたひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全とみられるらしい。65歳だった。誕生日は2月8日なので、あと数日の命があれば、66歳。
nagatayouko20130723PN201697_-_-_CI0003

永田洋子死刑囚 獄中で死亡

そのくらいの年齢で死ぬ人は珍しくはない。天寿を全うした部類と言えるのだろうかとふと思い、沈んでいた言葉にならない思いを見つめた。私が中学生のころの事件である。彼女は1945年生まれ、事件当時、27歳。アラサーと呼ぶには怒りそうな女子ですなというお年頃。
 永田死刑囚は1984年7月に脳腫瘍と診断され手術を受け、その後も頭痛に悩み、2006年5月に東京八王子医療刑務所に移され、翌05年東京拘置所に戻されたが脳萎縮の状態だったらしい。そのころはいわゆる寝たきりの状態で意識もない状態だったのではないだろうか。
 生まれたのは1945年。菅首相より一つ年上。同世代である。キューピッドの一矢が彼らを射貫かなかったのはヴィーナスの英知であったか偶然だったか、イケメンながらモテそうにもない中産階級臭い菅さんの人徳だったか。一矢は別のところに当たった。
 彼女は妊娠中絶経験などもあるらしいが、あの時代の人であるからな、ふんふんと聞き流す。学生時代にはバセドウ病であったらしいというか、そういうおどろおどろしい印象の写真をよくメディアで私なども見せられたものだった。実際にそうした病気を持っていたかは知らない。
 事件は凄惨極まりないもので、いやがおうにも中学生の耳にもスプラッタな話が流れ込む。だが、事実がなんであったかについては意外と仔細に知らない。ただ、冤罪ということはないだろう。最高裁確定判決では、1971年8月組織離脱の2人を殺害、翌同事件渦中で「総括」として仲間12人を死亡させたとのこと。そして事件では警官も3人殉職した。哀悼。

永田洋子死刑囚の日本赤軍時代

「総括」は「総評」みたいに70年代特有の響きがある。後に吉本隆明が書いたエッセイだったが、市井の人でも彼女みたいにああいう状態に陥ればああなるものだ、というようなコメントがあり、そうだろうなとは思った。ブログなんか書いていると、手ひどい罵倒を投げつけられるが、これが密室であったら私なんぞ総括されてしまうだろう。人間とはそんなものなのだ。
 事件は1972年と見てもよい。地裁判決が出たのはだから10年後。1982年6月。二審高裁は1986年9月。いずれも死刑。事件については「革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤る」と全面的に退られ、永田被告の個人的資質の欠陥などに起因するとした。20年後。1993年3月、最高裁が上告を棄却、死刑が確定した。「多数の殺人等の犯罪を敢行した事案」との判断である。
 当時の読売新聞社説を引っ張り出して読むとこうある。「確かに当時、学園や街頭にベトナム反戦運動が盛り上がったが、大半の学生はしだいに、一部の過激な行動に背を向けていった。大衆的基盤を失った彼らは、ひとりよがりの武闘路線に走り、捜査に追い詰められるように山に逃げ込んだ。自滅するべくして自滅したといえる。」それはそうか、マスコミや政権に逃げ込んで今頃自滅している残党もいそうな感じはするが。
 私が気になっているのは1993年という年である。このころ、オウム事件の惨事は着実に日本社会に胚胎し、連合赤軍事件の本質のようによみがえった。考えてみれば、連合赤軍事件だって六全協前の山村工作隊の余波のようでもあるし、なんのことはない戦前からのファシズムの太くて長い1本の歴史実体のようでもある。
 と書いてみて、ああ、それかと思う。永田洋子死刑囚、死刑執行されずというのはそういうことなのか。死刑を執行していたら、それはまたよみがえるということか。いや、もちろんこれはたちの悪い冗談の部類ではある。
 いずれにせよ死刑は執行されなかった。坂東國男(参照)を含め関係者が多く事件の全容が解明されていないからといった話も聞くが、そうであろうか。確かに、あの事件の全容はわからないと言ってもいいだろうが、死刑の判決に影響するものとは想定されないのではないか。
 1993年というと国連死刑廃止国際条約発効した年で、日本は批准しなかった。あの時代、実に死刑が少なかった。1987年に2人、88年に2人、89年つまり平成元年に1人。そして、その間しばらく死刑は執行されず、永田洋子に死刑が決まった1993年の翌月3月に3人。今顧みると、死刑の少なさは時代でもあったのだが、昭和天皇の死がじんわり恩赦のように覆っていたようにも思えるし、93年の死刑は永田洋子の死刑の決意のようにも見えないことはない。
 死刑は執行されなかった。それらは自民党政権時代の法務大臣の良心に任されていた。その良心をおまえさんはどう思うのだねと問われるなら、それでよかったのではないかと思う。理由はうまく言葉にならない。
 私は大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑には反対論に傾いている。一人の人間が死を決意してそれを引き替えに他者の死を巻き込むことは許せないと私は思うからである。許されざる者は一生獄のなかで生きるがよいと思うし、その生と社会は対話しなければならないと思う。そして、永田さんは長く、日本国民と対話してきた。

永田洋子死刑囚 来歴

永田 洋子(ながた ひろこ、1945年(昭和20年)2月8日 - 2011年(平成23年)2月5日)は、日本のテロリスト、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。リンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に病気のため獄死。

尼崎事件 角田美代子

尼崎事件 角田美代子

尼崎事件(あまがさきじけん)とは、25年以上にわたって、尼崎市を中心に兵庫県、高知県、香川県、岡山県、滋賀県、京都府の6府県で、数世帯の家族が長期間虐待、監禁され、数名が虐殺された殺人事件である。尼崎連続変死事件とも呼ばれる。2011年11月に被疑者逮捕で発覚した。また、無実の人間の顔写真を被告として報道した報道被害事件でもある。

尼崎事件 概要

この事件の主犯は64歳(2012年)の女で、従犯とされる親族の在日韓国人、38歳(2012年)の男やその他数名の取り巻きを従えて、標的とした複数の家族を暴力的に支配して、家庭に居座る、裸で外を歩かせる、などあらゆる虐待を繰り返し、結果死亡した女性はドラム缶に詰める、などした。主犯らによって暴力的・精神的に支配された被害者家族らは家ごと乗っ取られ、互いに殴打し合わされたり、監禁され暴行されたり、全財産を奪われたりしたが、主犯女の手口は巧妙で、自ら手を出すことは控えめだった。

主犯らは、些細なことに難癖をつけては弱みを見せる相手を脅迫し、多数の無法者を引き連れて家庭に侵入し、金品をむしり取ることを生業としており、夜の街で獲物を探し歩いていた。主犯女は普段から飲み仲間に、「交通事故に遭ったら金になる」など当たり屋の指導をするなどし、うっかり隙を見せて食い物になってしまった家族らのその後は凄惨で、高松市のある家族は2003年5月頃、餓死寸前になり、服も着させて貰えず、父親が全裸で長女をおんぶして親族の元に「何か食べさせてほしい」と、助けを求めてきたこともあった。

またある時は夫婦揃って全裸で泣きながら親族に金を借りに来ることもあり、やがては親族までもが呼び出され、長女が「お父さん、ごめんね」と泣きながら両親を顔が腫れるまで殴らせられている光景を目の当たりにし、「情けなくてつらくて、ノイローゼになるかと思った」とショックを受けた。

しかし、警察(兵庫県警尼崎東署、香川県警高松東署、高松南署)は再三親族や、この高松の父親、近隣住民などから被害相談や通報があったにも拘らず、全く対応することはなく、「事件ではないので動けない」などと繰り返し、結果的に長年の間、被害者たちはなすすべもなく主犯らの暴力、虐待の前に見殺しにされ、2011年管轄外の大阪府警がある被害者女性の駆け込みを信じて捜査を行ったことで、ようやく事態が公になった。被害者たちは、何度も逃げたが、そのたびに連れ戻されていた。

また中には、保険金目的に崖から転落を強要されて殺された者もいるが、この時も警察は現場の聞き込みや生命保険契約有無の確認さえ怠り、主犯達の言うがまま事故として処理していた。また、兵庫県警は主犯逮捕後も主犯宅の現状維持さえ怠り、競売に出されるがままになっており、逮捕一年後、2012年10月になってようやく家宅捜索を行うが、既に一味残党に証拠隠滅のため、監禁小屋を撤去されてしまうなど捜査の遅れが目立った。2012年11月7日、上述の主犯や従犯、その内縁の夫など8人が再逮捕、または逮捕された。

2012年12月1日から、高松市にて行方不明者の一人である、かつて床下から遺体が発見された民家に住んでいた88歳の女性(T一家の祖母)の遺体の捜索が行われた。12月2日の捜索では倉庫の床下から多数のコンクリートの破片が見つかり、12月3日に遺体が発見された。女性は行方不明後、主犯らの住むマンションで死亡したとされ、警察は殺人容疑で捜査している。

12月5日にも親族数人が殺人容疑で再逮捕された。事件の発覚は第46回衆議院議員総選挙の開始や笹子トンネルの事故と重なったため、重大な事件であるにもかかわらず、ほとんど報道されなかった。

12月12日午前6時20分頃、兵庫県警の留置所にて、主犯女が布団内で長袖のTシャツを首に巻き自殺を図っているのが見つかり、病院に搬送されたが死亡が確認された。主犯女は10月以降、弁護団や留置所を巡回する警察官に「生きていても意味がない」「死にたい。どうすれば死ねるのか」など自殺をほのめかす発言を複数回にわたりしていたという。逮捕後、主犯とされる容疑者が死亡したことにより、この事件の真相解明は極めて困難な状況になったと見られる。

尼崎事件 接点

上述のように主犯女の手口は、被害者たちを次第に取り込んでいくことであり、まずはきっかけから(あるいは口実を作って)接点を持ち、弱みを握り、相手の些細な「落ち度」を咎めて10人近くの集団で家に押しかけ、自宅に乗り込んで事実上占領し、職場にも押しかけて、挙句に被害者たちを虐待して意のままにすることであった。

尼崎事件 家宅占領後

そのうえで、主犯自身は手を下さず、従犯とされる義理の従弟や、「金髪デブ軍団」と呼ばれる取り巻き達を使い、あるいは恐怖によって怯えさせ、家族同士を自分の指示通りに殴り合いさせるなどして、家族間の信頼関係を破壊し、被害者宅へ暴力で支配を完成させていった。また、子供の身の安全を理由(ネタ)にし脅し、その両親を服従させることもしばしばだった。 何年もの虐待の末に、その家庭の子供が恐怖と安全への願いから主犯女に洗脳されてしまうケースもあった。高松市の被害者の娘は虐待された挙句に洗脳され自ら主犯女の養女になることを願い、次第に主犯女の命じる犯行の実行犯としての役割を演じるようになり、主犯女の息子と結婚させられもした。

尼崎事件 集金

主犯女の第一の目的は被害者の財産であり、集金方法には手段を選ばなかった。家含めて、被害者家庭の全資産を身ぐるみ剥いだのは言うまでもなく、「プライドを捨てさせるため」として被害者の子供に消費者金融から借りさせたり、両親、祖父母を脅迫して、親族の家までお金を借りに行かせたりした。また子供を脅して、子供の友人達からもお金を借りさせていた。

尼崎事件 被害者の待遇

主犯女は名義を変更させて被害者たちのマイホームを手に入れると、被害者たちを追い出し、自宅(主犯の)近くのワンルームのアパートに一家を丸ごと押し込んでいた。主犯は集めた金で自身の分譲マンションに別ルームを購入し、そこにも他の被害者家族を押し込み、一部はベランダの犬小屋大の隔離小屋に起居させることもあった。また、逃亡を防止するため、時に裸で暮らさせ、被害者の妻は猿轡をかませられ、それを見た親族(女)の口からはとても言えないほど、卑猥で無残な姿で暮らしていた。ベランダのこの小屋は複数個あって、外から施錠できる仕組みになっており、そこに閉じ込められた被害者へは、主に脅迫された親族らから継続的にリンチが行われ、少なくとも四名が衰弱して死亡している。またこの小屋を外から見られるのを防ぐため、ベランダの周囲には木製のフェンスが張り巡らされていた。また虐待の方法も凄惨、多様で、ある男性は、両耳をつぶされ、両手足をバーナーで焼かれていた。またある女性は耳が欠け、唇はえぐれて、発見時、放心状態であり、殺された別の女性は形が分からないほどに殴られて顔が変形しており、後日リンチの最中と思われる「生きているか死んでいるか分からない」写真を見せられた父親は慟哭した。

尼崎事件 被害者・その被害

主犯らの犯行によって、数世帯が壊滅に追い込まれ、一家は離散し、親族の多くが暴行・監禁を受け衰弱死した。以下に紹介する主犯らの犯行の説明では、イニシャルが登場するが、これは被害者の居住していた地名から取った頭文字であり、実名とは関係がない。またここに紹介する以外にも、数軒の家族が崩壊、虐殺、奴隷化の憂き目に遭っている。医師が病死と判断したため、警察が捜査していないものもある。

尼崎事件 角田美代子

尼崎事件 美代子容疑者、自殺を示唆「死んだら伝えてほしいことがある」
美代子なぜ自殺? 「世間に死をもって抗議」か 尼崎事件
尼崎連続不審死・角田美代子けさ留置場で自殺!首に絞めた跡?
尼崎連続変死 88歳女性の遺体捜索、2日朝に再開…高松
尼崎連続変死 「高松で88歳遺棄」親族が供述、1日捜索
尼崎連続遺棄 コンクリ詰め道具遺棄か 兵庫県警、西宮の海中を捜索
美代子被告「何とかせえ」 親族らに遺体の遺棄指示か
遺体は不明の遠縁男性=ドラム缶から発見―兵庫県警
尼崎事件、ドラム缶から男性遺体…DNA鑑定へ
日生港の海底にドラム缶 尼崎変死、捜索で引き揚げ
親族男性の沖縄転落死、再捜査検討…尼崎事件
尼崎事件・美代子被告 脱走許さぬ異常な執念
角田被告の自宅を殺人容疑で捜索 尼崎の連続変死
転落死した男性の弟「俺も殺される」 昨年から行方不明
尼崎連続変死 3人目の遺体は29歳女性
「側近」逮捕で支配崩れ、次々と告白…尼崎事件
攻撃性と力誇示…尼崎事件の角田被告周辺証言
尼崎ドラム缶遺体 沖縄で7年前、親族が転落死…多額の保険金 角田被告も同行
男女8人が所在不明=角田被告周辺や縁戚―年金勝手に引き出し・尼崎遺棄
男女8人が所在不明=角田被告周辺や縁戚―年金勝手に引き出し・尼崎遺棄
尼崎事件 「香川・岡山にも遺棄」 被告宅保証人ら不明
兵庫・尼崎 新たに遺体の痕跡を発見
連続殺人か、7人行方不明…民家床下から2遺体
尼崎ドラム缶遺体 殺人容疑4人再逮捕 家族分断し支配
長女・次女ら5人逮捕へ…母をコンクリ詰め容疑
「角田美代子」自分で首締めて死ねるのか?「意識失っても緩まなければ可能」(監察医)

平田信(ひらたまこと)1965年3月24日生まれ/オウム真理教事件

平田信(ひらたまこと)1965年3月24日生まれ/オウム真理教事件

20120105hiratataiho日本中を震撼させたオウム真理教の大量殺人事件に関わったとされる平田信容疑者の異例の自首騒動に日本中が震撼した。
平田信は、オウム真理教の信徒であり、オウム真理教事件実行犯の一人とされている。オウム真理教におけるホーリーネームは、「ポーシャ」だった。

北海道出身

オウム真理教時代は、車両省

平田信の生い立ち

北海道札幌市出身。北星学園大学附属高等学校、札幌商科大学(現・札幌学院大学)卒業。
北星学園大学附属高校では射撃部に所属し3年時にはインターハイの射撃競技に出場している。インターハイで少年の部11位の結果を残す。1987年(昭和62年)3月に大学を卒業し、東京都内のアパレルメーカーに就職したがすぐに退社。同年8月にオウム真理教徒として出家する。

平田信のオウム真理教での活動

平田は教団において身長183cmの体躯を買われ、同教団の教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)の身辺警護や「白い愛の戦士」などに携わっていた。1994年(平成6年)には、教団が多数の信者をロシアに送り込んで行った「軍事訓練ツアー」に参加し、射撃訓練を受けていた。一連のオウム真理教事件においては、1995年(平成7年)2月に発生した「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」では逃走車両運転手役を担当し、また同3月に発生した「島田裕巳宅爆弾事件」にも関与したとされる。

平田信の特別指名手配後

平田は「島田裕巳宅爆弾事件」で爆発物取締罰則違反で1995年5月31日に指名手配されたが、後に「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」でも逮捕監禁致死罪も指名手配容疑に追加された。後に平田はオウム真理教による「地下鉄サリン事件」に関わった高橋克也、菊地直子らとともに、「オウム真理教特別手配被疑者」に指定された。全国規模での捜査対象となり指名手配容疑者として広く周知された平田であったが、その逃亡生活は長期に渡った。
容疑事件の翌年である1996年(平成8年)2月には、宮城県仙台市の女性在家信者宅に潜伏していたことが判明しているが、逃亡。ちなみに、在家信者とは、普段は社会人として企業社会に溶け込みながら、稼ぎの多くを教団に献金することを修行としているオウム真理教信者のことである。

平田信、出頭により逮捕

その後、足取りは長く途絶えていたが、2011年(平成23年)12月31日、平田を名乗る人物が突如警視庁丸の内警察署に出頭。指紋照合にて本人と確定されたため、警視庁は翌日の2012年(平成24年)1月1日に監禁致死の容疑で平田を逮捕した。
カミカゼニュース 検索
カミカゼ ギャラリー
  • 2017 カミカゼ ニュースまとめ
  • 関 光彦 市川一家4人殺人事件
  • 「イチロー×アインシュタイン」の弟子志願者に困惑  ビートたけしの大正論
  • 進次郎氏が角栄と重ねて見られるのは政治状況が似ているからか
  • トヨタ「JPNタクシー」デビュー1か月、その評判は? 「これタクシー!?」の声も
  • トヨタ「JPNタクシー」デビュー1か月、その評判は? 「これタクシー!?」の声も