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布川事件−ふかわじけん

布川事件−ふかわじけん

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布川事件(ふかわじけん)は、1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件である。犯人として近隣に住む青年2人を逮捕・起訴し、無期懲役が確定したが、証拠は被告人の自白と現場の目撃証言のみで、当初から冤罪の可能性が指摘されており、2009年、再審が開始され、2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

布川事件−事件の概要

1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川で、独り暮らしだった大工の男性(当時62歳)が、仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見された。

茨城県警取手警察署による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の午後7時から11時頃であるとされた。男性は両足をタオルとワイシャツで縛られており首にはパンツが巻きつけられた上、口にパンツが押し込まれていた。死因は絞殺による窒息死であると判明した。現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。ただし、男性は個人的に金貸しを行っており、現金や借用書などが盗まれた可能性があった。唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかったことである。また、現場からは指紋43点が採集された。

男性の自宅付近で午後8時ごろに不審な2人組の男性の目撃情報があり、その情報から桜井昌司(当時20歳)と杉山卓男(同・21歳)の2人が別件逮捕され、2ヵ月後に起訴された。

布川事件−裁判

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公判で両人は「自白は取手警察署刑事課刑事に強要されたものである」として全面否認したが、1970年10月6日に第一審の水戸地裁土浦支部は無期懲役とし、1973年12月20日の第二審の東京高裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴を棄却し、1978年7月3日に最高裁で上告が棄却され、2人とも無期懲役が確定した。

収監された二人は1996年11月の仮釈放後も無実を訴え、民間人の有志による「布川事件守る会」が2001年12月6日に第二次再審請求(1回目は収監中の1983年12月23日に行われ棄却された)を水戸地裁土浦支部に申立て、同支部は2005年9月21日に再審開始を決定した。

これに対して検察側が東京高裁に即時抗告するが、2008年7月14日、東京高裁(門野博裁判長)は棄却して再審開始決定を支持する。東京高検の鈴木和宏次席検事は「内容を十分検討し、最高検とも協議のうえ適切に対処したい」と述べ、その後、最高裁判所に特別抗告するが、2009年12月15日、最高裁(竹内行夫裁判長)は、検察側の特別抗告を棄却し再審開始が確定。

2010年7月9日に水戸地方裁判所土浦支部にて再審第1回公判が開かれる。以後6度の公判を重ね、判決は2011年3月16日に言い渡しを予定していた。しかし直前に発生した東日本大震災(3月11日)の影響により判決公判が5月24日に延期となった。

2011年5月24日、仕切り直しの判決公判が行われ、被告の両名に無罪判決が言い渡された。なお、検察側は「新証拠の提示は出来ず有罪判決を得るのはほぼ不可能」として期限切れまで控訴せず、確定させる方針。

冤罪事件−布川事件

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昭和42年(1967年)8月30日の朝、利根町布川で独り暮しの老人が自宅で殺害されているのが発見された。被害者は、玉村象天(たまむらしょうてん)さん(当時62才)で、その発見者によると、この日玉村さんに大工仕事を頼みに来て声を掛けたが、庭に自転車があるのに返事がないので、不思議に思って勝手口の戸を開けてみると、8帖間で玉村さんが殺害されていたということでした。

 警察の検証記録によれば、現場の状況はおよそ次の通りです。

被害者宅の玄関と窓は施錠されていたが、勝手口がわずかに開いていた。
便所の窓が開いており、木製の桟が2本はずされて外に落ちていた。
8帖間と4帖間の境のガラス引戸が2枚とも4帖間側の方に倒れ、割れたガラスがあたりに散乱していた。
8帖間の押入の前の床板が割れていて、そのV字形に落ち込んだ所に被害者が倒れていた。
被害者は、両足をタオルとワイシャツで縛られ、口の中にはパンツが押し込まれた上、首にもパンツが巻きつけられて窒息死していた。
室内には、寝具、衣類などが散乱し、ロッカ−、机の引出し、タンス等に物色の跡が見られた。
室内の蛍光灯は、8帖間、4帖間とも点灯していた。
合計43点の指紋が採取されたが、犯人に結びつくものはなかった。
 何が盗られたかは不明だったが、日ごろ使用していた<白い財布>が見当たらないので、それが被害にあったものと思われました。

検屍の結果、被害者は8月28日の午後7時から11時頃に首を絞められて殺されたものと推定された。被害者の玉村象天さんは、日頃から近所付合いが少なかったため、なかなか有力な情報が得られなかったが、それでも現場周辺の聞込捜査を続けた結果、当日の足取りは午後6時30分頃に吉岡宅の大工仕事を終え、その後7時〜7時30分頃に工事代金の取立てのため米元方に立ち寄り5分位話をして帰った、ということが判明した。

 当時の新聞記事によれば、「 28日の夜7時30分から8時30分頃、ふたりの男が被害者宅付近にいた。そのうちの1人は被害者の家のあがりはなに立ち、他の1人は壁のほうにいた。1人は背が高い男であった。」という情報が得られ、結局、この「 2人連れの男 」が犯人ではないかという推定で捜査が進められた。

 利根町、布佐町、そして竜ヶ崎市(一部)にわたって地取り捜査が行われ、前科者、素行不良者、被害者から多額の金を借りていた者などでアリバイのはっきりしない者を対象に捜査が続けられたが、10月初旬には捜査が行き詰まってしまった。この間、捜査線上に浮かび上がった対象者は、総勢180名前後にものぼったが、アリバイ捜査の結果、最後に残ったのが桜井昌司さんと杉山卓男さんだった。そして、10月10日になって桜井さんが、ズボン1本の窃盗容疑で逮捕され、続いて10月16日には杉山さんが暴力行為の容疑で逮捕されたのです。

 ふたりは、それぞれ警察の取調で『 自白 』を強要され、その『 自白 』を根拠に、裁判で無期懲役の判決を受け、29年間も刑務所に囚われた末に、平成8年11月相次いで仮釈放となりました。



愛犬家連続殺人事件 関根元 風間博子

愛犬家連続殺人事件 関根元 風間博子

関根元 風間博子 愛犬家殺人事件愛犬家殺人事件 経緯
平成7年1月5日、埼玉県警は埼玉県・熊谷市のペットショップ「アフリカケンネル」経営の関根元(当時53歳)と元妻で共同経営の風間博子(当時38歳)の2人を死体遺棄の疑いで逮捕した。

関根は犬の繁殖場の建設で1億4000万円の借金を抱えていた。そこで、なりふり構わず不当な価格で犬の販売を行った。平成6年4月、産廃処理会社経営・川崎昭男(当時39歳)に対して実際は数十万円のアフリカ産の犬を1000万円で売りつけた。後日、購入した犬が時価数十万円程度であることを知った川崎は関根に代金の返済を求めた。

そこで、関根は川崎を呼び出して栄養剤だと偽って犬薬殺用の「硝酸ストリキニーネ」入りのカプセルを飲ませて殺害した。硝酸ストリキニーネは、知人の獣医に「犬を安楽死させるため」と偽り50人を殺害できる量の5グラムを譲り受けていた。

この殺害を知った暴力団幹部・遠藤安亘(当時51歳)とその運転手・和久井奨(21歳)を口封じのため7月に殺害。8月末には、主婦・関口光江(当時54歳)に犬の販売トラブルで殺害した。いずれも「硝酸ストリキニーネ」を飲ませて殺害し、群馬県片品村にある犬飼育場に遺体を運び、風間と2人で浴槽にて包丁でバラバラにした。また、同社の元役員・志麻永幸(当時38歳)に依頼して細切れにした肉片は川に棄て、骨はドラム缶で焼き、残った骨灰は近くの山林に棄てた。

愛犬家殺人事件 公判と展開

殺害した4人の遺体は骨が粉々になるまで損壊させたため身元の確認ができなかった。このため、自供による証拠固めを中心に捜査を続けていた。逮捕後、関根は4人の殺害を認めたが風間の主導であったと主張。一方、風間は関根の主導で犯行に至ったと主張した。

平成13年3月21日、浦和地裁は「いずれも身勝手な理由で、次々と虫けらを殺すように毒殺などを実行した。世上まれに見る重大凶悪事犯」として、関根・風間2人に死刑を言い渡した。両被告は控訴。

尚、志麻は犯行を認め服役。平成10年8月に出所後、本事件を執筆し「愛犬家連続殺人」というタイトルで本を出したことで注目を集めている。

平成17年7月11日東京高裁は、関根、風間の控訴を棄却。2人はただちに上告した。

関根元 風間博子 死刑確定

平成21年6月5日、最高裁は「猛毒を飲ませて中毒死させ、死体を切断して山や川に捨てた犯行は冷酷で悪質極まりない。不合理な弁解を繰り返し、真摯な反省の態度も見られない」として、関根と風間の上告を棄却した。これにより2人に死刑が確定した。

愛犬家殺人事件 関根元 風間博子事件の詳細

1995年におきた、埼玉愛犬家殺人事件。その残虐性は犯罪史上、類い希なものだった。警察の賢明な捜査にもかかわらず、犯罪の物証はなかなか発見できなかった。容疑者は事件との関わりを一切否定。しかし、男は確かに、犬の売買から生じた金銭トラブルをきっかけに、殺人を行っていたのだ。計画的な連続殺人。証拠の隠滅。4ヶ月の間に、4人もの人間を殺害

関根元 風間博子とは?

ブルドックのブリーダーをしていた山崎氏は、ドッグショーで関根と知り合う。関根はハスキー犬のブリーダーとして、ペット業界では名の知れた人物だった。関根は様々なドッグショーで賞を獲得するも、裏ではあくどい商売をしていた。例えば、犬を売った家に、毒入りの肉を持っていく。何の疑いも持たずに食べた犬は死に、関根は新しい犬を売りつける事が出来た。
 関根は、仕入れ値をはるかに上回る高額な値段で、犬を売りつけていた。不信感をもった客には、言葉巧みに言い逃れる。それでも客がおさまらない場合、詐欺行為の発覚を恐れて、殺害におよんでいたのだ。

最初の犠牲者となった川崎さんの場合は、自宅のガレージに呼び出して、毒殺。二人の仲は決して悪くはなかった。犬の売買で言い合いはしていたが、信頼関係も多少はあった。関根から「体に良い薬だよ」とすすめられ、疑いなく飲んでしまったのだ。
 後から現場に来た山崎氏が、警察に通報しなかったのは・・・
 「そこまで考えている余裕は、その現場に立つと、ないと思います、誰も」
 「それは、そこの空気というか、殺気というかで、本当にその場に立たないと、そういうことは、まずわからないと思います。後で結果が出て、こうすればよかったとか、こうした方がよかったのではないか、と考えたりもしますけど、思考能力がなくなっちゃうのが現状じゃないですか」
 更に、警察への通報をためらわせる、関根の一言があった。
 『子供、元気か・・・』
 「一般的に『子供元気にしてるのか』という意味では全くない、ということです」
 こうして山崎氏は連続殺人事件に巻き込まれていった。

証拠を残さない

急にいなくなった川崎さんを捜して、川崎さんの家族が関根を訪ねてきた。実は、関根のうちに監禁されているのではないかと、川崎さんのお兄さんは思っていたという。しかし、その席に何故か関根は、知り合いの暴力団幹部を同席させ、しらを切り通した。

 しかし、ここで関根の誤算があった。川崎さんは関根に殺されたのではないかと、暴力団幹部の遠藤さんが疑い、それをネタにゆすり始めたのだ。
 ゆすりに応じるフリをして、遠藤さんの自宅へ。この席には妻の風間博子も同席。関根は言葉巧みに、栄養剤だと言って、硝酸ストリキニーネを遠藤氏に渡した。関根は、4人の殺害を、全てこの毒薬で行った。この猛毒は、犬の安楽死に使われるものだった。長い付き合いをしていた、遠藤さんと、付き人の和久井さんは、疑いもなくそれを飲んだ。

 その後も、詐欺的商法の露呈を恐れ、主婦の関口さんを殺害。
 警察は何故、連続殺人を止めることが出来なかったのか!?第一の殺人の時から、警察は関根をマークしていたというのに・・・。
 毒薬を使う殺人、それは、血痕を残さないということだ。つまり、きわめて重要な証拠を残さない、という事なのだ。

第二第三の殺人

川崎さんのお兄さんは、弟が関根に監禁されていると思ったので、警察に捜索願を出した。しかし警察は、単なる行方不明という扱いで処理。捜索には乗り出さなかった。10日後、川崎さんが普段、埼玉県内で使用している車が、東京駅で発見され、ようやく警察は、川崎さんが事件に巻き込まれた可能性があると、捜査に乗り出した。しかし証拠がないため、関根、風間、山崎の3名を常に監視。しっぽを出すのを待った。そして、その間に、警察の隙をついて、第二、第三の殺人がおこっていたのだ。

そんな中おきた、大阪愛犬家殺人事件。同じ愛犬家の事件である、埼玉の事件に、世間は注目し始めた。連日のようにマスコミが関根の元へ押し掛け、4人の失踪を追求した。しかし関根は平然と受け答え。事件との関係を否定。

遺体はどこに?

殺害された遺体は、山崎氏の実家のある山梨県に運ばれた。
 この殺人は、一般のバラバラ殺人とは趣がかなり違い、用意周到にしくまれたものだ。骨は粉になるまで砕かれ、肉は切り刻んで川に捨てる。計画性があり、悪逆非道。

 その作業は風呂場で行われた。一人の人間だったものが、短時間のうちに解体されてゆく。
 「声も何も出ませんよ。その場に立つと。現実なのか夢なのか、という風にしか考えられません」
 肉を焼くと異臭が出るので、骨のみをドラム缶で焼く。原型が崩れさり、灰になるまで焼かれた。灰は山林にばらまかれた。骨以外の部分は、切り刻んで川に捨てられた。

愛犬家殺人事件 証拠が無い

4人もの人間が関根の周りで行方不明。しかし証拠(遺体)が見つからないため、逮捕できずにいた。しかし、事態は急転直下。山崎氏が警察に自白。だが、何故自白する気になったのか。
 「いずれ、こういう時が来るのかなと。だんだん悟ってきたというか。それと、このままにしておけば、警察が張り込もうが何しようが、犠牲者は必ず(また)出ると。それを止めるためには、僕が喋らないと、止まらない」

 1995年。川崎さんの事件から2年。関根と風間を4人の殺人罪で逮捕。
 しかし、山崎氏の供述だけでは、両被告を裁判所に起訴できない。裁判にかけなければ、刑を科す事は出来ない。起訴するためには、山崎氏の供述を裏付ける、物的証拠が必要だった。

愛犬家殺人事件 神様がくれた証拠

埼玉・群馬両県警は、合同捜査を開始。遺体を捨てたとされる山林を、しらみつぶしに捜した。しかし、どこを捜しても、有力な証拠は見つからない。迷宮入りか・・・。捜査員達の間に落胆のため息が出た。その時!
 一人の捜査員が意外な物を発見した!小さなお守り・・・。それは、川崎さんがお兄さんとお揃いで持っていた、大黒天神のお守りだった!これは、川崎さんが持っていたものとしか考えられない、決定的な証拠だ。
 「なんとか早く犯人が逮捕されるようにと、大黒さまにもお参りしてましたからね」と川崎さんのお兄さんは語る。
 小さなお守りが、完全犯罪に大きな風穴をあけた。被害者が残した、犯人逮捕へのメッセージだった。

足利事件 冤罪

足利事件 菅家受刑者 釈放

足利事件

足利事件(あしかがじけん)とは、1990年5月12日に、栃木県足利市内のパチンコ店の駐車場から女児(4歳)が行方不明になり、翌朝、近くの渡良瀬川の河川敷で遺体となって発見された事件。

2009年5月の再鑑定により、犯人として服役していた人物のDNAと、遺留物のDNAが一致しない事が判明した。

足利事件発覚から逮捕まで

1990年5月12日
父親が足利市内のパチンコ店でパチンコに熱中している間に、同店駐車場から女児(4歳)が行方不明になる。
5月13日
女児の遺体を、渡良瀬川の河川敷で発見。
1991年12月2日
同市内に住む運転手のS(当時45歳)を、猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕。
逮捕の決め手は、「女児の下着に付着していた体液のDNA型と、SのDNA型が一致した」こと。
栃木県警察本部は、総勢180人余の捜査本部を設置し、捜査をしていた。

足利事件 取調べ、裁判

Sは、警察や検察の取り調べ時に犯行を自白した。しかし、第一審の途中から否認に転じ、無罪を主張した。

当時、DNA鑑定は警察庁科学警察研究所に導入されたばかりであり、弁護側は「信頼性に疑問がある」としていた。しかし、最高裁は2000年7月17日に「DNA型鑑定の証拠能力を認める」初判断を示し、第一審の無期懲役判決が確定。Sは千葉刑務所に服役した。

足利事件 DNA再鑑定

2008年1月
日本テレビが、ニュース特集で足利事件の問題点を報道。自供の矛盾点やDNA鑑定の問題点などを指摘し、DNA再鑑定の必要性を訴えた。その後も継続して放送を行う。
記者は、「桶川ストーカー殺人事件」などを取材した清水潔。

10月
東京高裁は、DNA再鑑定を行うことを決定(逮捕から17年目に当たる)。

2009年2月
検察側と弁護側の両者が推薦した弁護人2名が、DNA再鑑定を開始。

5月
再鑑定の結果、SのDNA型と女児の下着に付着した体液の型が一致しなかった。
真犯人のDNA型が判明したが、従来に言われていた型ではなかった。
事件は時効が成立。

6月
千葉刑務所より服役中のSを釈放。記者会見でSは「検察と栃木県警に謝罪してほしい」と涙ながらに語った。
栃木県警元幹部は事件の捜査について妥当だったと語り、さらに足利事件を思い出したくないと語った。

釈放の菅家さんが会見
「17年間の人生返して」=捜査批判、声震わせ−釈放の菅家さんが会見
菅家さん釈放から一夜明け「気持ち晴れやか、空が違う」
菅家さんと免田さん、冤罪撲滅へ“共闘”誓う
取り調べ「全面可視化を」=足利事件の菅家さんら訴え
足利事件 最高検謝罪に菅家さん「絶対に許さない」
足利事件で検察が謝罪=次長検事会見「申し訳なかった」
「やってません」13時間…菅家さん、絶望の「自白」

福田孝行 山口県光市母子殺害屍姦事件

山口県光市母子殺害屍姦事件 福田孝行

福田孝行 山口県光市母子殺害屍姦事件

福田孝行 獄中書
『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける物は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

ドストエフスキー『罪と罰』を引用し、
『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』

(死刑判決を免れ無期懲役判決が下ったとき)

『勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(本村氏に対して)

『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』

『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君』

『オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。へへ』

『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』
『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

光市母子殺害事件 福田孝行

光市母子殺害事件(ひかりしぼしさつがいじけん)は、1999年4月14日に山口県光市で発生した凶悪犯罪。当時18歳の少年により主婦(当時23歳)が殺害後暴行され、その娘(生後11カ月)の乳児も殺害された。

福田孝行 山口県光市母子殺害屍姦事件 事件の概要

1999年4月14日の午後2時半頃、当時18歳の少年が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入った。排水検査を装って居間に侵入した少年は、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。頸部を圧迫して窒息死させた。

その後少年は女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を殺意をもって床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。

少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された。

和歌山毒物カレー事件 林眞須美(はやし ますみ、1961年7月22日)

和歌山毒物カレー事件 林眞須美(はやし ますみ)

わかやまどくぶつカレーじけん)は、1998年7月25日夕方、和歌山県和歌山市の園部地区で行われた夏祭において、提供されたカレーに毒物が混入された事件。

和歌山毒物カレー事件 概要

1998年7月25日に園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送された。当初保健所は食中毒によるものと判断したが、自治会長を初めとした4人が死亡したことから和歌山県警は吐瀉物を検査し、青酸の反応が出たことから青酸中毒によるものと判断。しかし、症状が青酸中毒と合致しないという指摘を受け、警察庁の科学警察研究所が改めて調査して亜ヒ酸の混入が判明した。

和歌山毒物カレー事件 事件後

林真須美 カレー毒物事件1998年10月4日、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で主婦・林眞須美(はやし ますみ、1961年7月22日 - )が逮捕された。更に12月9日には、カレーへの亜ヒ酸の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕された。林は容疑を全面否認したまま裁判へと臨み、1審の和歌山地裁、2審の大阪高裁に於いて共に死刑判決を受けたが、上告している。

1審において被告が完全黙秘を行い、メディアがこれについて批判的な報道を行ったため、1審の判決文において黙秘権の意義に関し、専らメディア向けとみられる一般的な判示がなされるなど、刑事裁判の在り方の点から見ても特異な事件となった。

また、状況証拠だけで死刑判決が出された事件として、また未必の故意による殺人としても異例である。

また、この事件後子供たちは児童養護施設に送られたが、長男が女性職員に性的関係を強要されたと報道されている(和歌山少年暴行事件)

福田和子(逃亡15年時効寸前に逮捕)

福田和子(逃亡15年)松山ホステス殺人事件

福田 和子(ふくだ かずこ、1948年1月2日 - 2005年3月10日)は、大分県出身の元服役囚
福田和子(逃亡15年)松山ホステス殺人事件福田和子の人生:幼くして両親が離婚し、母親に引き取られる。母親は自宅で売春宿を経営していた。

強盗罪で服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕されていた郷田会の囚人が看守を買収し、囚人女性を強姦するといういわゆる松山刑務所事件が起こる。福田はこの事件で被害者となった。この刑務所内強姦事件は国会にも取り上げられる大スキャンダルとなり、看守はこのスキャンダルで自殺している。

その後キャバレーのホステスとして1982年、松山市内で福田の同僚だったホステス(当時31歳)の首を絞めて殺害、当時の夫などの依頼で家財道具などを持ち逃げし、ホステスの遺体を遺棄する、いわゆる松山ホステス殺害事件が発生した。

その後福田は幾度となく偽名を使ったり、美容整形を繰り返すなどして全国のキャバレーを転々とする生活を始める。愛媛県警察本部が懸賞金をかけた捜査を行い、やがて時効の近づいた1997年7月29日、福井市内で逮捕された。四国まで鉄道で移送され、松山拘置所に拘置された。松山市までの道中は捜査員と福田が乗車した特急サンダーバードや新幹線などにマスコミ関係者が同乗し、福田の周囲を取り囲むなど大騒ぎとなった。逮捕のきっかけは時効が近づき大々的にワイドショーなどで報道されたために社会的関心が高まったことにあった。

1999年5月31日、松山地裁にて無期懲役の判決が下され控訴するも、2000年12月13日、高松高裁にて控訴棄却。松山拘置所から高松刑務所に移され、収監。福田は最高裁へ上告したが2003年11月、上告棄却。無期懲役の刑が確定し、和歌山県和歌山市の和歌山刑務所に収監される。

2005年2月、病気で倒れ、3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞のため死去。享年58(満57歳没)

福田和子15年間の逃亡生活

時効までの15年近く日本各地を転々としていた福田だが、潜伏生活の中で最も大胆だったのは石川県根上町の和菓子屋の後妻(婚姻せず。事実上の内縁関係)の座に納まっていたことである。

金沢市のスナックで働いていた福田はその店の客だった和菓子屋の主人に見初められて同棲するようになり、店も手伝うようになる。福田は非常によく働き接客も得意だったことから店は忽ち評判となり、新しく改装するほどの繁盛店となった。和菓子屋の主人は福田を大層気に入り、正式に結婚を申し込むが、福田は正体の判明を懼れ結婚を渋る。

余りに結婚を渋る福田の態度に不審を抱いた親戚が警察に通報、警察は福田の逮捕に向かう。しかし当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知、咄嗟の判断で近くにあった自転車に乗り逃走。逮捕は失敗する。このとき警察は福田が整形手術を行っていた事実を初めて知り、当時の週刊誌でも取り上げられた。

その後も捜査網を巧みに潜り抜け逃亡を続けるが、1997年福井市内に潜伏中、行きつけのおでん屋のママと常連客の通報が切掛けとなり、逮捕。逮捕成功に繋がった情報の提供者に懸賞金が支払われた。

懸賞金は慈善団体に寄付が為され、また逮捕現場となったおでん屋は区画整理により取り壊され現存していない。
福田和子 松山ホステス殺人事件

松山ホステス殺害事件

松山ホステス殺害事件(まつやまほすてすさつがいじけん)とは、1982年8月19日に愛媛県松山市でホステス(当時31歳)が、犯人で被害者と同僚のホステスであった福田和子に殺害され、家財一式が奪われたうえに遺体が遺棄された強盗殺人及び死体遺棄事件である。この事件で注目されたのが犯人が整形手術を受けたうえで当時の殺人罪の公訴時効である15年(現在は25年)直前まで逮捕されず逃亡したことであり、マスコミ報道を見た市民による通報で逮捕されると言う劇的な幕切れを迎えたことである。

■時効直前:1982年に犯行後、福田和子は東京へ向かい整形手術をしたため、人相が変わり捜査機関からの追求をかわしていた。その後金沢で生活していることが判明したが、捜査が及ぶ直前に逃亡した。公訴時効成立を直前に迎えた1996年に愛媛県警松山東警察署は逮捕につながる情報を提供した者に対して100万円の報奨金を支払うとしたうえに、また時効直前には女性を整形した病院も400万円の報奨金を出すとして、俄然マスコミの報道が加熱していた。そうしたなか福井県福井市の飲食店がなじみの客が手配者に類似しているとの通報があり、指紋が一致したために1997年7月29日に逮捕された。その後彼女は15年ぶりに松山市に身柄を送致され公訴時効成立まで11時間前に起訴された。

福田和子のその後

彼女は時効が完成していた死体遺棄以外の罪によって裁判にかけられ、1999年5月31日に松山地裁で無期懲役を宣告され、控訴および上告も棄却されたため2003年に刑が確定した。和歌山刑務所で刑に服していたが脳梗塞で倒れ、2005年3月10日に収容先の病院で死去(享年57)した。

免田事件(冤罪)免田栄

免田事件(冤罪)免田栄

免田事件経緯:昭和23年12月30日午前3時頃、熊本県・人吉市の祈とう師、白福角蔵(当時76歳)、妻のトキエ(当時52歳)、長女(当時14歳)、次女(当時12歳)の一家4人が就寝中に、何者かに鉈(なた)でメッタ打ちにされたうえ、包丁で喉をつかれて両親が即死、娘二人も重傷を負っているのを、夜警見回りしていた次男が発見した。

翌年の昭和24年1月13日深夜、人吉警察署は同県・免田村の免田栄(当時23歳)を窃盗容疑で別件逮捕する。免田は当時、植林の仕事を手伝っており、山小屋で就寝中に刑事が上がり込んで来て逮捕された。
何故、免田が容疑者として捜査線上に浮上してきたのか、今でも明確になっていない部分が多い。が、当時の状況から(鉈=植林)、(事件内容を周囲の人間に詳しく話していた?)などが重なり重要参考人としたことが推測される。
免田事件(冤罪)■免田事件凄まじい拷問と脅迫:免田に対する取り調べは想像を絶する厳しさで、2日間はまったく食事をさせず、不眠3日間。取調べは、免田に殴る・蹴るは勿論のこと、「地獄に落としてやる!」、「早く自供して楽になれ!」などと免田を脅迫した。不眠4日目、暖房の無い極寒の独房室で免田は、意識がもうろうとしていく。もう、限界で楽になりたいという気持ちから「犯行を自供」したのだった。

免田事件証拠隠滅

免田は、一審の第三回公判で「拷問によって自白を強要された」として、以降の公判では「全面的に容疑を否認し無罪」を訴える。検事側は、白福一家殺しで使われたとする鉈や免田が犯行時に着ていたとする血痕が着いているズボン、マフラーを熊本地検で保管中に破棄するなど証拠隠滅を行う(その後の鑑定を恐れた警察側が隠滅した可能性が極めて高い)。

免田事件アリバイの争点

警察は、犯行は12月29日の深夜から翌日の午前3時の間と断定した。そこで、免田の12月29日のアリバイの有無が焦点となった。免田は、29日午後、丸駒という特殊飲食店に宿泊し、接客婦(当時19歳)と一晩を過ごして翌30日は友人宅に泊まった(前述の山小屋)と証言した。

ところが、警察は接客婦に対して「免田と宿泊したのは30日だ」と誘導し供述書を取った。従って、犯行日の29日の免田のアリバイは成立しないと主張。これで免田の29日のアリバイが完全に葬られた。

免田事件冤罪活動

免田は無実を訴えるが、昭和25年3月23日一審の熊本地裁・八代支部は免田に死刑を言い渡した。昭和26年3月二審の福岡高裁は免田の控訴を棄却。昭和27年1月5日最高裁は免田の上告を棄却して死刑が確定した。

だが、免田は「自分は絶対に無実である」と獄中から訴え続ける。昭和27年6月10日の第一次再審請求をかわきりに第6次まで再審請求を続けた。この間、免田を支援する日弁連や市民団体の活動もあり、昭和54年9月27日福岡高裁は再審開始の決定をした。
免田栄 冤罪事件■免田事件無罪確定:昭和58年7月15日、熊本地裁・八代支部(河上元康裁判長)は、免田に対して無罪を言い渡し、即日釈放を命じた。日本裁判史上初めての《「死刑囚の再審無罪判決》だった。

村上裁判長はこの判決で、免田の自供は強要されたものと認め、免田のアリバイは成立していると断じた。
?29日、免田は丸駒に入り接客婦と一夜を共にしたことが、この店主の職員手帳に記載されている(免田は1100円を支払って、この内接客婦が300円を取り、残りの800円を丸駒の店主に預けた)。村上裁判長が、この職員手帳を取り寄せて仔細に確認すると、確かに昭和24年12月29日に800円と記載されていた。

?30日、友人宅に宿泊したとする証言では、免田が友人宅に向かう途中、知り合いのAさんと出会った。Aさんは、その日が米の配給日の30日だったと証言。そこで、Aさんの米配給手帳を取り寄せて確認すると確かに昭和24年12月30日に米配給を受けていたことが判明した。

さらに、検察側の主張する免田の逃走経路に不自然な行動が目立ち、動機も明確になっていない。これらの事実を鑑みた時、免田が犯行に至ったことはありえないと断じて完全無罪を言い渡した。

再審請求は、「針の穴にラクダを通すようなもの」と言われるほど難しい。これは、再審開始の要件は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した時」とされているからだ。明らかな証拠=明白性の要件、あらたな発見=新規性の要件。この2つの要件は、真犯人が現れるか、アリバイを完全に立証できなければならない。よって、この無罪判決は法曹界では画期的な出来事だった。

弁護団は言う。「警察(検事)は2つの大罪を犯した。1つは、1人の無実の人間を死刑台に送ろうとしたこと、2つは真犯人を永久に取逃がしたこと」。
免田は無実を勝ち取るのに34年と6ヶ月を要し、出所した時には、頭髪に白いものがまじる57歳になっていた。

免田事件の概要

■免田事件(めんだじけん)とは1948年に起こった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つである
1948年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、娘二人(14歳女性と12歳女性)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)在住の免田栄(当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した。この3日間余りの間、警察は免田に拷問と脅迫を加え、自白を強要させていた。同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第一審の第三回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日には特殊飲食店の女性と遊興しておりアリバイがあるとして無罪を主張。

警察はアリバイの捜査を行うが、アリバイ証人に対し「一緒にいたのが翌日」というように証言を誘導させた。また、検察は証拠品である凶器の鉈、免田が犯行時に着ていて血痕が付着していたとされる法被・マフラー・ズボンなどを廃棄するという証拠隠滅とも思える行動をとっている。

免田事件死刑判決

1950年3月23日、熊本地裁八代支部は死刑判決を言い渡す。免田は控訴するが1951年3月19日に福岡高裁で控訴が棄却される。更に免田は上告するが、1952年1月5日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。

免田事件無罪判決

1968年、国会に死刑囚に対する再審改正法案が提出されるも翌年の1969年に廃案。その代わり、当時の法務大臣である西郷吉之助が、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して特別恩赦を約束(関連項目参照)。免田氏も特別恩赦が検討されたが実現せず。

免田は再審請求を行うが、第5次請求まで全て棄却された(第3次請求は地裁では再審の開始が決定されたものの、検察の即時抗告により高裁で取り消された)。そして第6次再審請求が承認され、1979年9月27日に再審が開始される。

再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘され、1983年7月15日、発生から34年6ヶ月後、無罪判決が言い渡された。

刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7ヶ月の拘禁日数12,559日に対して免田に9,071万2,800円の補償金が支払われた。

釈放後の免田栄

無罪が確定されたにもかかわらず、その後の免田に対する批判が続いた。当時としてはけた違いの多額の補償金を何に使ったとか、出所後の行動(女性関係など)を週刊誌が報道したりした。

また落語家立川談志がラジオ番組において「ぜったいやってないわけないんだよね」と話し、後に謝罪する事件が起きた。

2007年9月27日放送の「午後は○○おもいッきりテレビ」内の「きょうは何の日」のコーナーで、現在の免田のインタビューが放送された。

週刊朝日など数社の週刊誌に、「あの人は今」のようなコーナーで写真つきインタビューが掲載された。刑事補償金の半額以上を弁護団や支援団体に謝礼として渡したこと、拘置所にいた間は年金に加入できず現在も年金は受け取ってない状態であること、無罪確定後に結婚した妻と2人で細々と暮らしていること、ほぼ毎日釣りに出かけていること、無罪確定から数十年を経た現在も社会には偏見があり、なかなか一般の人との付き合いは難しいことなどを語っている。これは地元では特に根強く、公共の場で冤罪であると発言することすらはばかられる事もある。なお、免田は拘置所から出所後、いったん地元に帰ってきて歓迎されたが、真犯人が不明なことや巨額の補償金を受け取ったことなどで、地元で平穏に暮らせず、他の市に引っ越した。

ある死刑廃止運動の会合で免田は佐木隆三に出会う。佐木の著書「曠野へ―死刑囚の手記から」に登場した実在の死刑囚、川辺敏幸と同じ拘置所だったこと、さまざまな死刑確定囚を見てきたが、川辺ほど竹を割ったような性格の男はいなかったことなど発言している。また川辺も佐木に、拘置所のソフトボール大会で免田と楽しんだ思い出を語っていた。

免田は複数の著書を出版しており、それらの中で自身の体験をつづるとともに、死刑制度の廃止を主張している。現在は人権の大切さを訴える講演を全国各地で行っている。2001年には、フランスのストラスブールで行われた第1回死刑廃止世界会議に参加した。また、2007年には国際連合本部(ニューヨーク)で行われたパネルディスカッションにおいて自らの主張を訴えた。

リクルート事件(政治家汚職事件)

リクルート事件(政治家汚職事件)

■経緯:昭和63年6月18日朝日新聞が「川崎市助役へ一億円利益供与疑惑」をスクープ報道した。これによって、リクルート疑獄事件が始まる。リクルート社はグループ企業であるリクルート・コスモス社の値上がり確実な未公開株を店頭公開前に譲渡することで実質の利益を供与するものであった。

翌7月には自民党の中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一など大物政治家にコスモ株がばら撒かれていたことが発覚する。
9月5日、この疑獄事件追求の急先鋒であった社民連の楢崎弥之助代議士にコスモス社の松原弘社長室長(当時)が500万円を持参し「国会での追及を中止してほしい」と申し出る。この一連のやり取りは楢崎が隠し撮りをしており、日本テレビで大々的に報道された。

リクルート事件大物の逃げ切り

リクルートの江副浩正会長(当時)は、急成長する自社に政治的・財界的に地位を高めようと、有力政治家・官僚・通信関連でNTTの3つをターゲットに未公開株をばら撒く。政治家の大口としては中曽根康弘が29000株、竹下登・宮沢喜一・渡辺美智雄・加藤紘一らが10000株前後、官僚では高石邦男文部次官・加藤孝労働次官、民間ではNTTの真藤会長・長谷川寿彦取締役ら100人前後に渡った。

10月30日の店頭公開では一株3000円に対して初値5270円が付いた。中曽根の場合で言えば、労せず1日で6583万円の利益になる。
翌年の平成元年2月13日、リクルートの江副会長、NTTの真藤会長とその秘書らが逮捕。3月8日加藤労働次官、同月28日高石文部次官がそれぞれ贈収賄で逮捕された。竹下登は一連の責任を取り首相辞任を表明した。
だが、政治家は自民党の藤波孝生議員、公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、中曽根や竹下をはじめ大物政治家はついに逃げ切った。
リクルート創業者江副浩正1936年6月12日大阪市天王寺区に生まれる。東京大学卒。在学中の大学新聞の広告営業を発展させ就職情報会社リクルートを創立。情報をお金に変えるビジネスの天才と呼ばれるが平成元年、政界上層部と高級官僚を巻き込んだ未公開株の譲渡事件、いわゆるリクルート事件で逮捕・起訴され表舞台から消え去る。その後、平成4年に所有していたリクルートの923万8000株をダイエーに譲渡。

リクルート事件とは?

リクルート事件は、値上がり確実であったリクルートコスモス(現 コスモスイニシア)社の未公開株を賄賂として受け取ったとして、政治家や官僚らが次々に逮捕された日本の汚職事件である。

リクルート事件:概要

1988年(昭和63年)6月18日、朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』をスクープ報道し、その後、リクルートにより関連会社リクルート・コスモス(現 コスモスイニシア)社未公開株が、中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄など大物政治家に、店頭公開前に譲渡していたことが相次いで発覚する。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は税制特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。
東京地検特捜部は、1989年、政界・文部省・労働省・NTTの4ルートで江副浩正リクルート社元会長ら贈賄側と藤波孝生元官房長官ら収賄側計12人を起訴、全員の有罪が確定した。だが、政治家は自民党では藤波議員ただ一人、そして公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、中曽根や竹下をはじめ大物政治家は誰一人立件されなかった。

リクルート事件の経緯

・1984年12月〜1985年4月:江副浩正リクルート社会長、自社の政治的財界的地位を高めようと、有力政治家・官僚・通信の3分野をターゲットに未公開株を相次いで譲渡(1984年12月20〜31日39人、1985年2月15日金融機関26社、4月25日37社、1個人)。
・1985年:10月30日 コスモス株店頭公開、上記譲渡者の売却益は合計約6億円といわれた。
・1986年6月:藤波孝生元官房長官ら政財界へのコスモス株譲渡。
・1988年6月18日:川崎駅前再開発を巡り、小松秀煕川崎市助役へのコスモス株譲渡を、朝日新聞がスクープ。当時再開発が行われていた明治製糖工場跡地の再開発事業(かわさきテクノピア)に関して便宜を図った(具体的には本来容積率が500%のところを800%に引き上げて高層建築を可能とした)とされる。
・7月:マスコミ各社の後追い報道により、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスに、軒並みコスモス株が譲渡されていたことが発覚。
・7月6日:森田康日本経済新聞社社長が、1984年12月に受けた未公開株譲渡で8,000万円の売却益を得た事が発覚、社長辞任。
・7月26日:江副会長、「抑うつ症状」で半蔵門病院に入院。
・9月3日:松原弘リクルートコスモス社長室長が、国会で未公開株譲渡問題を追及していた楢崎弥之助社民連衆議院議員に対し、手心を加えるよう贈賄を申込み。しかし、9月5日、楢崎らによって隠し撮りされた模様が、日本テレビ『NNNニュースプラス1』で全国放送される。
・10月19日:東京地検特捜部、リクルート本社、コスモス社、松原自宅を家宅捜索。
・10月26日:東京地検特捜部、東洋信託銀行証券代行部を家宅捜索。コスモス社の株主名簿等を押収。
・10月29日 藤波元官房長官、真藤恒NTT会長、高石邦男前文部事務次官、加藤孝前労働事務次官へのコスモス株譲渡が発覚。
・11月10日:東京地検、捜査開始宣言。松原を贈賄申込罪で起訴。
・11月15日:江副、衆議院リクルート問題調査特別委員会に、コスモス株譲渡者全リスト提出。
・11月21日:衆議院リクルート問題調査特別委員会、江副、高石前文部次官、加藤前労働次官を証人喚問。
・12月9日:宮沢蔵相が辞任。
・12月12日:真藤NTT会長が辞任。
・12月26日:竹下首相、内閣改造を実施。
・12月30日:長谷川峻法務大臣、リクルートからの献金が発覚し、辞任。
・1989年:1月24日 原田憲経済企画庁長官、リクルートがパーティー券を購入した事実が発覚し、辞任。
・2月12日:参議院福岡選挙区補欠選挙、社会党新人渕上貞雄が自民党候補に圧勝。
・2月13日:検察首脳会議開催。同日、東京地検特捜部、江副前会長・小林宏ファーストファイナンス前副社長・式場英及び長谷川寿彦NTT元取締役をNTT法違反(贈収賄)容疑で逮捕。
・2月21日:鹿野茂元労働省課長(ノンキャリアで加藤の側近)を贈収賄容疑で逮捕。
・3月6日:真藤前会長をNTT法違反(贈収賄)で逮捕。
・3月8日:加藤前次官、辰已雅朗リクルート社元社長室長を贈収賄容疑で逮捕。
・3月28日:高石前次官を贈収賄容疑で逮捕。同日、真藤前会長、加藤前次官らを起訴。
・4月25日:竹下、記者会見で首相退陣表明。
・4月26日:青木伊平元竹下登在東京秘書が自殺。
・5月15日:検察首脳会議開催。
・5月22日:東京地検特捜部、藤波元長官と池田克也元衆議院議員を受託収賄罪で在宅起訴。
・5月25日:衆議院リクルート問題調査特別委員会、中曽根前首相を証人喚問。
・5月29日:東京地検特捜部、宮沢前蔵相秘書を含む議員秘書4人を、政治資金規正法違反で略式起訴。同日捜査終結宣言。
・6月3日:竹下内閣総辞職。

■リクルート事件:判決内容
・藤波元長官は、1989年12月、東京地裁で初公判が開始。1994年9月、東京地裁は藤波被告に無罪判決、検察側控訴。1997年3月、藤波被告の控訴審で逆転有罪判決、被告側上告。1999年6月、最高裁が藤波被告側の上告を棄却・有罪確定。2007年10月死去。
・池田元議員は、1994年12月、東京地裁にて有罪判決・確定。
・江副元会長は、2003年3月、東京地裁にて、懲役3年執行猶予5年の有罪判決(確定)

リクルート事件の影響

これまでの疑獄事件と異なり、未公開株の譲渡対象が広範で職務権限との関連性が薄く、検察当局は大物政治家の立件ができなかった。しかし、ニューリーダー及びネオ・ニューリーダーと呼ばれる大物政治家が軒並み関わった事で、“リクルート・パージ”と呼ばれる謹慎を余儀なくされ、政界の世代交代を促した(この事件が無かったら、党内事情からいって、安倍晋太郎が次期首相になった公算が大きいという意見もある)。また、事件以降「政治改革」が1990年代前半の最も重要な政治テーマとなり、小選挙区比例代表並立制を柱とする選挙制度改革・政党助成金制度・閣僚の資産公開の妻子への拡大等が導入されることになった。
また、1989年7月の第15回参議院議員通常選挙にて、自民党は惨敗・改選議員過半数割れとなった(自民党にとって、リクルート事件、消費税導入、牛肉・オレンジの農産物自由化が“逆風3点セット”と言われ、宇野宗佑首相の女性スキャンダルも支持を減らす大きな要因と言われた)。2008年現在に至るまで、自由民主党は参院選後における参議院単独過半数を回復していない。

リクルートとリクルートコスモス(現コスモスイニシア)はこの事件でイメージが悪化、これにバブル崩壊が追い討ちをかけ、リクルートはダイエーに身売りされ、江副浩正はリクルートを追われることとなった。

鳴海清(昭和歴史の男)

鳴海 清(なるみ きよし、1952年 - 1978年)は、日本のヤクザ。暴力団・松田組村田組大日本正義団組員。血液型はB型

鳴海清の人生

・昭和27年(1952年)、生まれた。兄が1人、姉が5人いた。
・昭和42年(1968年)、中学校を卒業し、東大阪市の印刷工場に就職した。
・昭和44年(1970年)、印刷工場を辞めて、釜ヶ崎に移り住んだ。
・同年、釜ヶ崎のスナックで、客と喧嘩となり、客を殴り殺した。鳴海清は傷害致死で、浪速少年院に入った。
・昭和46年(1971年)、浪速少年院から出た。
・同年、松田組村田組大日本正義団で使い走りを始めた。
・昭和49年(1974年)、初代大日本正義団・吉田芳弘会長(後に二代目大日本正義団会長となった吉田芳幸の実兄)から盃をもらい、吉田芳弘の若衆となった。
・昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。

・昭和53年(1978年)9月17日、鳴海清の遺体が、ハイカーによって、神戸市六甲山山中の瑞宝寺谷で発見された。

・同年9月27日、兵庫県警は、神戸市六甲山山中の瑞宝寺谷で発見された遺体を、鳴海清と断定した。

鳴海清の事件

山口組三代目襲撃事件(鳴海清) 山口組・田岡組長狙撃事件(大阪事件)

山口組三代目襲撃事件(鳴海清)

山口組三代目襲撃事件(鳴海清)

■事件概要:1978年7月11日午後9時半ごろ、京都市東山区のナイトクラブ「ベラミ」で、部下4人とショーを楽しんでいた山口組・田岡一雄組長(当時65歳)が突然狙撃された。逃走した男は敵対する松田組系「大日本正義団」組員・鳴海清(26歳)。この事件の報復から、8〜10月にかけて山口組は松田組系の7人を射殺。鳴海の他殺体も9月に六甲山中で発見された。
 匿っていた鳴海を殺害したという松田組系「忠誠会」の3人は、90年9月に殺人については無罪が言い渡されている。

ドンを撃った男 鳴海清

1978年7月11日午後9時半ごろ、京都市東山区のナイトクラブ「ベラミ」で、部下4人とショーを楽しんでいた山口組・田岡一雄組長(当時65歳)が突然狙撃された。放たれた2発のうち1発は、田岡組長の首を貫通し、全治2ヶ月の重傷。他にも近くの席にいた医師2人も流れ弾にあたり重傷を負った。

撃ったのは対立する松田組系村田組内「大日本正義団」・鳴海清(26歳)。グラスに残された指紋から彼と判った。彼は組長を撃った後、店を出て阪急電車で逃走した。

山口組と松田組の対立は75年頃から続いていた。
 そもそものきっかけは75年7月26日、大阪府豊中市で、山口組系佐々木組内「徳元組」の組員が、松田組系「溝口組」の賭場で嫌がらせを続けたため、溝口組員が徳元組員3人を射殺、1人に重傷を負わせたことだった(豊中事件)。
 これに対し、佐々木組は松田組の背後にいた大日本正義団・吉田芳弘会長を射殺。鳴海はこの吉田会長を尊敬していたという。彼は山口組に報復を決意、狙うのはトップ・田岡組長だった。

鳴海清:田岡一雄

鳴海清:鳴海は1952年、大阪・西成区荻之茶屋で生まれた。両親ははじめ野菜を売っていたが、労務者相手の食堂をしていた。鳴海はどちらかと言えば、色白でおとなしそうな雰囲気を持つ。中学卒業後、家の近くの工場で働いたが長続きせず、17歳の時に傷害致死事件で浪速中等少年院に送られた。退院後は土木作業員などをしていた。その後、近所の女性と親しくなり結婚、実家の八百屋を改造して「なるみ食堂」を始めた。その後、博打などで地元の大日本正義団に出入りするうちに背中に天女の刺青を入れ、組員となった。


山口組三代目田岡一雄:田岡組長は1913年に徳島県三好郡の農家に生まれた。46年に山口組三代目組長を襲名。「三代目」とつくが、実際には田岡氏が創設し、拡大させたとされている。田岡氏は戦後まもなくから、構成員に対して「正業に就け」と言っていた。ヤクザと言えども博打だけで食っていくのではなく、組織をいかして神戸港の船内荷役業に進出した。これは朝鮮戦争の特需で順調だった。その後は「神戸芸能」を設立して芸能興行界にも影響力を持った。 
 ”一流経営者”田岡組長のもとで、創設時わずか33人の博徒衆に過ぎなかった山口組は、一代で460団体、1万5千人の巨大組織となったのである。

鳴海清と抗争

姿をくらませていた鳴海は、大阪の夕刊紙に挑戦状を送りつけていた。

「田岡まだお前は己の非に気づかないのか・・・・・もうすこし頭のすづしい男だと思っていた。でも見そこなった様だ」

「日本一ならば真の親分ならば恥を知る者だ。それを知らぬかぎりしょせん、くすぼりの成り上りでしかない」

「このまま己の力を過信すれば、その過信がお前のすべてのものをほろぼす事になる。それは天罰だ。必ず思い知らされる時が来るぞ」

 こうした挑発を受けて、当然のことながら山口組による報復が始まった。松田組系の7人が銭湯・路上・タクシー車内などで射殺されている。

・8月17日 松田組系「村田組」・幹部 死亡
・9月2日 松田組系「西口組」・組員2人 ともに死亡
・9月18日 「大日本正義団」・幹部 負傷
・9月24日 松田組系福田組内「杉田組」・組長 死亡
・10月5日 松田組系「村田組」・幹部 負傷
・10月8日 松田組系瀬田組内「石井組」・組員 死亡
・10月24日 「大日本正義団」・幹部 死亡

鳴海清の最後

一方、行方が探されていた鳴海は9月17日、六甲山中の瑞宝寺谷で、パジャマ姿の腐乱死体となって発見された。遺体の状態はひどく、10日経って背中の天女の刺青からやっと鳴海とわかるほどだった。
 白骨化した遺体にはガムテープが巻かれており、脇腹などに数ヶ所の刺し傷、前歯が折られ、男根や爪もなかった。これは殺される前に激しいリンチを受けていたことを意味する。

 鳴海は田岡組長を狙撃する前、妻と愛人を並べて、自身の計画を打ち明けていた。そして自分に万が一のことがあれば、助け合って生きていくようにと伝えた。家族の安全のために妻子を愛人の住んでいたアパートに移していた。
 「ベラミ」から逃走した後は、大日本正義団二代目会長と愛人に連れられ、同じ松田組系の「忠誠会」(兵庫県三木市)に匿ってもらっていたという。

 10月8日、「忠誠会」幹事長ら3人が鳴海殺しを自供。その動機は「山口組の激しい報復に、持て余す存在となった」というものだった。ところが3人の供述には微妙な食い違いがあった。

 11月1日、山口組は記者会見をして「大阪戦争」の抗争終結宣言を発表。
 松田組は資金難から5年後に解散した。

誰が鳴海を殺したんだろう:81年7月23日、田岡組長が急性心不全のため死去。享年68。組葬では美空ひばりが弔辞を読んだ。
 田岡組長は鳴海に狙撃され尼崎市の病院に運ばれた時、こう言っていた。
「わしを狙うなんてえらい奴ちゃなあ。しかしなあ、自分が助かる気で撃つから失敗するんや。自分が死ぬ気でわしを撃ってくるんやったら、もっと近くへ寄って、もっと狙って撃つべきやった」
 また流れ弾に当たった人を心配して、「俺はええから、向うの人の手当てを早くせえ!」と指示していたという。

 90年1月28日、大阪高裁での差し戻し控訴審で、近藤暁裁判長は「客観的な証拠と矛盾し、不自然な変遷も認められる。捜査官の誘導や、作意が疑われ信用できない」と。神戸地裁の一審を破棄、3人の殺人罪については無罪とし、逮捕監禁罪、同幇助罪でのみ懲役8ヶ月〜1年を言い渡した。
 鳴海殺害の真犯人はわかっていない。

鳴海清とは

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