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日本事件簿

栗田源蔵 連続8人殺害事件

栗田源蔵 連続8人殺害事件

5年間で8人を殺害した栗田源蔵という人物は、2つの事件において、どちらの事件でも死刑判決を受けた日本ではまれにみる凶悪犯。栗田事件は死刑が執行されている事件であるが、古い事件の為、死刑事件としてではなく、日本事件簿に記録している。
20130723kurita004kurita昭和27年1月13日の夜、千葉県検見川町(現、千葉市)の民家に泥棒がはいり、同家の主婦・鈴木いわさん(当時63歳)と義理の姪・きみさん(当時24歳)が殺害された。さらに、犯人はきみさんを死姦し逃走した。国警千葉本部の現場検証の結果、指紋の押収に成功。この指紋が決定的となり同町の妹夫婦宅で居候をしている秋田県新成村出生の栗田源蔵(当時26歳)を逮捕した。捜査本部は、栗田を同事件で起訴する一方、類似事件の事情聴取を行った。

この類似事件とは、前年の昭和26年8月8日夜、栃木県小山町(現、小山市)の増山宅で乳児を寝かしつけていた妻の文子さん(当時24歳)を絞殺。死姦した後、タンスから衣類などを盗んで逃走した事件。

もう一つは、その二ヵ月後の10月10日夜、千葉県小湊町(現、天津小湊町)の興津駅の待合室で主婦の小林ふゆのさん(当時29歳)が長男(当時5歳)、長女(当時7歳)、次女(当時2歳)を連れ立っているところを「家まで送ってあげる」と栗田が声をかけた。しばらく歩くと『おせんころがし』と呼ばれる海に面した断崖絶壁の場所にさしかかった。ここで栗田は本性を現し、ふゆのさんに乱暴しようとした。驚いた長男が大声を出すと近くにあった石で長男を殴打し海に突き落とした。続いて長女、次女も海に突き落とした後、ふゆのさんに強姦。その後、絞殺して同じく海に突き落とした事件。幸いにも長女だけは、崖の途中にひっかかり一命を取り留めた。この「おせんころがし」の由来は、昔金亡者の父を戒めようと娘のおせんが身を投じた場所と言われ、荒れた海に身を投じると助かる確率はまず無いと言う。

栗田はこの2件の関与を否定。特に「おせんころがし事件」の日は秋田県下で窃盗をはたらいていたと主張した。捜査本部が調べた結果、実際に地元署では栗田を指名手配しており「アリバイがあるように見えた」。
この2件の類似事件とは別に、昭和27年8月13日千葉地裁は検見川の殺人事件に関して死刑判決を栗田に言い渡した。

二度目の死刑判決−栗田源蔵

千葉地裁で死刑判決が出た2ヶ月後の10月に国警栃木本部と小山地区警察の捜査官が収監されている東京拘置所の栗田を訪ねる。改めて小山の文子さん殺害に関して追及。その結果、12月27日までに自供を得る事に成功した。
さらに「おせんころがし事件」でも秋田県下で実際に窃盗したのは知人で、それを聞きつけた栗田が身代わりを約束し、自から犯人になることでアリバイを作っていたことが判明した。栗田はその後、おせんころがし事件も認めた。

この取調べ中、さらに昭和23年2月に二人の女性を殺害していたことも自供した。この女性は村井はつさん(当時17歳)と鈴木芳子さん(当時20歳)で、村井さんと鈴木さんは友人であった。栗田は両方に結婚の約束をしていた。やがて邪魔になった鈴木さんを殺害して静岡県原町(現、沼津市)の海岸に埋めた。村井さんは鈴木さんが失踪したことや嫉妬から、彼女の所在を栗田に聞いた。栗田は「芳子を殺した」と口を滑らせた。焦った栗田は村井さんも絞殺し同じ海岸に埋めたことが判明した。これで栗田は8人の殺害を全て自供した。戦後稀代の殺人鬼である。

宇都宮地裁は、検見川殺人事件以外の3件6人殺しで昭和28年12月21日に二度目の「死刑判決」を言い渡した。昭和29年10月21日栗田は「はやく楽になりたい」と控訴を取り下げ「死刑」を確定させた。

ところが、栗田は「死を受け入れることができなかった」。このため、何度も再審請求の手続きを行う。筋肉隆々で狂暴な栗田は同囚はもとより看守も震え上がったほどの傍若無人な獄中生活を送っていたが、やがて死刑設備がある宮城刑務所に移送されてからは一気に意気消沈。昭和34年10月14日死刑執行。32歳であった。

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

1971年12月から翌72年2月にかけて起きた連合赤軍事件で、殺人・死体遺棄罪などに問われ、1993年に最高裁で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部・永田洋子(ながたひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全とみられるらしい。65歳だった。誕生日は2月8日なので、あと数日の命があれば、66歳。
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永田洋子死刑囚 獄中で死亡

そのくらいの年齢で死ぬ人は珍しくはない。天寿を全うした部類と言えるのだろうかとふと思い、沈んでいた言葉にならない思いを見つめた。私が中学生のころの事件である。彼女は1945年生まれ、事件当時、27歳。アラサーと呼ぶには怒りそうな女子ですなというお年頃。
 永田死刑囚は1984年7月に脳腫瘍と診断され手術を受け、その後も頭痛に悩み、2006年5月に東京八王子医療刑務所に移され、翌05年東京拘置所に戻されたが脳萎縮の状態だったらしい。そのころはいわゆる寝たきりの状態で意識もない状態だったのではないだろうか。
 生まれたのは1945年。菅首相より一つ年上。同世代である。キューピッドの一矢が彼らを射貫かなかったのはヴィーナスの英知であったか偶然だったか、イケメンながらモテそうにもない中産階級臭い菅さんの人徳だったか。一矢は別のところに当たった。
 彼女は妊娠中絶経験などもあるらしいが、あの時代の人であるからな、ふんふんと聞き流す。学生時代にはバセドウ病であったらしいというか、そういうおどろおどろしい印象の写真をよくメディアで私なども見せられたものだった。実際にそうした病気を持っていたかは知らない。
 事件は凄惨極まりないもので、いやがおうにも中学生の耳にもスプラッタな話が流れ込む。だが、事実がなんであったかについては意外と仔細に知らない。ただ、冤罪ということはないだろう。最高裁確定判決では、1971年8月組織離脱の2人を殺害、翌同事件渦中で「総括」として仲間12人を死亡させたとのこと。そして事件では警官も3人殉職した。哀悼。

永田洋子死刑囚の日本赤軍時代

「総括」は「総評」みたいに70年代特有の響きがある。後に吉本隆明が書いたエッセイだったが、市井の人でも彼女みたいにああいう状態に陥ればああなるものだ、というようなコメントがあり、そうだろうなとは思った。ブログなんか書いていると、手ひどい罵倒を投げつけられるが、これが密室であったら私なんぞ総括されてしまうだろう。人間とはそんなものなのだ。
 事件は1972年と見てもよい。地裁判決が出たのはだから10年後。1982年6月。二審高裁は1986年9月。いずれも死刑。事件については「革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤る」と全面的に退られ、永田被告の個人的資質の欠陥などに起因するとした。20年後。1993年3月、最高裁が上告を棄却、死刑が確定した。「多数の殺人等の犯罪を敢行した事案」との判断である。
 当時の読売新聞社説を引っ張り出して読むとこうある。「確かに当時、学園や街頭にベトナム反戦運動が盛り上がったが、大半の学生はしだいに、一部の過激な行動に背を向けていった。大衆的基盤を失った彼らは、ひとりよがりの武闘路線に走り、捜査に追い詰められるように山に逃げ込んだ。自滅するべくして自滅したといえる。」それはそうか、マスコミや政権に逃げ込んで今頃自滅している残党もいそうな感じはするが。
 私が気になっているのは1993年という年である。このころ、オウム事件の惨事は着実に日本社会に胚胎し、連合赤軍事件の本質のようによみがえった。考えてみれば、連合赤軍事件だって六全協前の山村工作隊の余波のようでもあるし、なんのことはない戦前からのファシズムの太くて長い1本の歴史実体のようでもある。
 と書いてみて、ああ、それかと思う。永田洋子死刑囚、死刑執行されずというのはそういうことなのか。死刑を執行していたら、それはまたよみがえるということか。いや、もちろんこれはたちの悪い冗談の部類ではある。
 いずれにせよ死刑は執行されなかった。坂東國男(参照)を含め関係者が多く事件の全容が解明されていないからといった話も聞くが、そうであろうか。確かに、あの事件の全容はわからないと言ってもいいだろうが、死刑の判決に影響するものとは想定されないのではないか。
 1993年というと国連死刑廃止国際条約発効した年で、日本は批准しなかった。あの時代、実に死刑が少なかった。1987年に2人、88年に2人、89年つまり平成元年に1人。そして、その間しばらく死刑は執行されず、永田洋子に死刑が決まった1993年の翌月3月に3人。今顧みると、死刑の少なさは時代でもあったのだが、昭和天皇の死がじんわり恩赦のように覆っていたようにも思えるし、93年の死刑は永田洋子の死刑の決意のようにも見えないことはない。
 死刑は執行されなかった。それらは自民党政権時代の法務大臣の良心に任されていた。その良心をおまえさんはどう思うのだねと問われるなら、それでよかったのではないかと思う。理由はうまく言葉にならない。
 私は大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑には反対論に傾いている。一人の人間が死を決意してそれを引き替えに他者の死を巻き込むことは許せないと私は思うからである。許されざる者は一生獄のなかで生きるがよいと思うし、その生と社会は対話しなければならないと思う。そして、永田さんは長く、日本国民と対話してきた。

永田洋子死刑囚 来歴

永田 洋子(ながた ひろこ、1945年(昭和20年)2月8日 - 2011年(平成23年)2月5日)は、日本のテロリスト、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。リンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に病気のため獄死。

尼崎事件 角田美代子

尼崎事件 角田美代子

尼崎事件(あまがさきじけん)とは、25年以上にわたって、尼崎市を中心に兵庫県、高知県、香川県、岡山県、滋賀県、京都府の6府県で、数世帯の家族が長期間虐待、監禁され、数名が虐殺された殺人事件である。尼崎連続変死事件とも呼ばれる。2011年11月に被疑者逮捕で発覚した。また、無実の人間の顔写真を被告として報道した報道被害事件でもある。

尼崎事件 概要

この事件の主犯は64歳(2012年)の女で、従犯とされる親族の在日韓国人、38歳(2012年)の男やその他数名の取り巻きを従えて、標的とした複数の家族を暴力的に支配して、家庭に居座る、裸で外を歩かせる、などあらゆる虐待を繰り返し、結果死亡した女性はドラム缶に詰める、などした。主犯らによって暴力的・精神的に支配された被害者家族らは家ごと乗っ取られ、互いに殴打し合わされたり、監禁され暴行されたり、全財産を奪われたりしたが、主犯女の手口は巧妙で、自ら手を出すことは控えめだった。

主犯らは、些細なことに難癖をつけては弱みを見せる相手を脅迫し、多数の無法者を引き連れて家庭に侵入し、金品をむしり取ることを生業としており、夜の街で獲物を探し歩いていた。主犯女は普段から飲み仲間に、「交通事故に遭ったら金になる」など当たり屋の指導をするなどし、うっかり隙を見せて食い物になってしまった家族らのその後は凄惨で、高松市のある家族は2003年5月頃、餓死寸前になり、服も着させて貰えず、父親が全裸で長女をおんぶして親族の元に「何か食べさせてほしい」と、助けを求めてきたこともあった。

またある時は夫婦揃って全裸で泣きながら親族に金を借りに来ることもあり、やがては親族までもが呼び出され、長女が「お父さん、ごめんね」と泣きながら両親を顔が腫れるまで殴らせられている光景を目の当たりにし、「情けなくてつらくて、ノイローゼになるかと思った」とショックを受けた。

しかし、警察(兵庫県警尼崎東署、香川県警高松東署、高松南署)は再三親族や、この高松の父親、近隣住民などから被害相談や通報があったにも拘らず、全く対応することはなく、「事件ではないので動けない」などと繰り返し、結果的に長年の間、被害者たちはなすすべもなく主犯らの暴力、虐待の前に見殺しにされ、2011年管轄外の大阪府警がある被害者女性の駆け込みを信じて捜査を行ったことで、ようやく事態が公になった。被害者たちは、何度も逃げたが、そのたびに連れ戻されていた。

また中には、保険金目的に崖から転落を強要されて殺された者もいるが、この時も警察は現場の聞き込みや生命保険契約有無の確認さえ怠り、主犯達の言うがまま事故として処理していた。また、兵庫県警は主犯逮捕後も主犯宅の現状維持さえ怠り、競売に出されるがままになっており、逮捕一年後、2012年10月になってようやく家宅捜索を行うが、既に一味残党に証拠隠滅のため、監禁小屋を撤去されてしまうなど捜査の遅れが目立った。2012年11月7日、上述の主犯や従犯、その内縁の夫など8人が再逮捕、または逮捕された。

2012年12月1日から、高松市にて行方不明者の一人である、かつて床下から遺体が発見された民家に住んでいた88歳の女性(T一家の祖母)の遺体の捜索が行われた。12月2日の捜索では倉庫の床下から多数のコンクリートの破片が見つかり、12月3日に遺体が発見された。女性は行方不明後、主犯らの住むマンションで死亡したとされ、警察は殺人容疑で捜査している。

12月5日にも親族数人が殺人容疑で再逮捕された。事件の発覚は第46回衆議院議員総選挙の開始や笹子トンネルの事故と重なったため、重大な事件であるにもかかわらず、ほとんど報道されなかった。

12月12日午前6時20分頃、兵庫県警の留置所にて、主犯女が布団内で長袖のTシャツを首に巻き自殺を図っているのが見つかり、病院に搬送されたが死亡が確認された。主犯女は10月以降、弁護団や留置所を巡回する警察官に「生きていても意味がない」「死にたい。どうすれば死ねるのか」など自殺をほのめかす発言を複数回にわたりしていたという。逮捕後、主犯とされる容疑者が死亡したことにより、この事件の真相解明は極めて困難な状況になったと見られる。

尼崎事件 接点

上述のように主犯女の手口は、被害者たちを次第に取り込んでいくことであり、まずはきっかけから(あるいは口実を作って)接点を持ち、弱みを握り、相手の些細な「落ち度」を咎めて10人近くの集団で家に押しかけ、自宅に乗り込んで事実上占領し、職場にも押しかけて、挙句に被害者たちを虐待して意のままにすることであった。

尼崎事件 家宅占領後

そのうえで、主犯自身は手を下さず、従犯とされる義理の従弟や、「金髪デブ軍団」と呼ばれる取り巻き達を使い、あるいは恐怖によって怯えさせ、家族同士を自分の指示通りに殴り合いさせるなどして、家族間の信頼関係を破壊し、被害者宅へ暴力で支配を完成させていった。また、子供の身の安全を理由(ネタ)にし脅し、その両親を服従させることもしばしばだった。 何年もの虐待の末に、その家庭の子供が恐怖と安全への願いから主犯女に洗脳されてしまうケースもあった。高松市の被害者の娘は虐待された挙句に洗脳され自ら主犯女の養女になることを願い、次第に主犯女の命じる犯行の実行犯としての役割を演じるようになり、主犯女の息子と結婚させられもした。

尼崎事件 集金

主犯女の第一の目的は被害者の財産であり、集金方法には手段を選ばなかった。家含めて、被害者家庭の全資産を身ぐるみ剥いだのは言うまでもなく、「プライドを捨てさせるため」として被害者の子供に消費者金融から借りさせたり、両親、祖父母を脅迫して、親族の家までお金を借りに行かせたりした。また子供を脅して、子供の友人達からもお金を借りさせていた。

尼崎事件 被害者の待遇

主犯女は名義を変更させて被害者たちのマイホームを手に入れると、被害者たちを追い出し、自宅(主犯の)近くのワンルームのアパートに一家を丸ごと押し込んでいた。主犯は集めた金で自身の分譲マンションに別ルームを購入し、そこにも他の被害者家族を押し込み、一部はベランダの犬小屋大の隔離小屋に起居させることもあった。また、逃亡を防止するため、時に裸で暮らさせ、被害者の妻は猿轡をかませられ、それを見た親族(女)の口からはとても言えないほど、卑猥で無残な姿で暮らしていた。ベランダのこの小屋は複数個あって、外から施錠できる仕組みになっており、そこに閉じ込められた被害者へは、主に脅迫された親族らから継続的にリンチが行われ、少なくとも四名が衰弱して死亡している。またこの小屋を外から見られるのを防ぐため、ベランダの周囲には木製のフェンスが張り巡らされていた。また虐待の方法も凄惨、多様で、ある男性は、両耳をつぶされ、両手足をバーナーで焼かれていた。またある女性は耳が欠け、唇はえぐれて、発見時、放心状態であり、殺された別の女性は形が分からないほどに殴られて顔が変形しており、後日リンチの最中と思われる「生きているか死んでいるか分からない」写真を見せられた父親は慟哭した。

尼崎事件 被害者・その被害

主犯らの犯行によって、数世帯が壊滅に追い込まれ、一家は離散し、親族の多くが暴行・監禁を受け衰弱死した。以下に紹介する主犯らの犯行の説明では、イニシャルが登場するが、これは被害者の居住していた地名から取った頭文字であり、実名とは関係がない。またここに紹介する以外にも、数軒の家族が崩壊、虐殺、奴隷化の憂き目に遭っている。医師が病死と判断したため、警察が捜査していないものもある。

尼崎事件 角田美代子

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男女8人が所在不明=角田被告周辺や縁戚―年金勝手に引き出し・尼崎遺棄
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平田信(ひらたまこと)1965年3月24日生まれ/オウム真理教事件

平田信(ひらたまこと)1965年3月24日生まれ/オウム真理教事件

20120105hiratataiho日本中を震撼させたオウム真理教の大量殺人事件に関わったとされる平田信容疑者の異例の自首騒動に日本中が震撼した。
平田信は、オウム真理教の信徒であり、オウム真理教事件実行犯の一人とされている。オウム真理教におけるホーリーネームは、「ポーシャ」だった。

北海道出身

オウム真理教時代は、車両省

平田信の生い立ち

北海道札幌市出身。北星学園大学附属高等学校、札幌商科大学(現・札幌学院大学)卒業。
北星学園大学附属高校では射撃部に所属し3年時にはインターハイの射撃競技に出場している。インターハイで少年の部11位の結果を残す。1987年(昭和62年)3月に大学を卒業し、東京都内のアパレルメーカーに就職したがすぐに退社。同年8月にオウム真理教徒として出家する。

平田信のオウム真理教での活動

平田は教団において身長183cmの体躯を買われ、同教団の教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)の身辺警護や「白い愛の戦士」などに携わっていた。1994年(平成6年)には、教団が多数の信者をロシアに送り込んで行った「軍事訓練ツアー」に参加し、射撃訓練を受けていた。一連のオウム真理教事件においては、1995年(平成7年)2月に発生した「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」では逃走車両運転手役を担当し、また同3月に発生した「島田裕巳宅爆弾事件」にも関与したとされる。

平田信の特別指名手配後

平田は「島田裕巳宅爆弾事件」で爆発物取締罰則違反で1995年5月31日に指名手配されたが、後に「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」でも逮捕監禁致死罪も指名手配容疑に追加された。後に平田はオウム真理教による「地下鉄サリン事件」に関わった高橋克也、菊地直子らとともに、「オウム真理教特別手配被疑者」に指定された。全国規模での捜査対象となり指名手配容疑者として広く周知された平田であったが、その逃亡生活は長期に渡った。
容疑事件の翌年である1996年(平成8年)2月には、宮城県仙台市の女性在家信者宅に潜伏していたことが判明しているが、逃亡。ちなみに、在家信者とは、普段は社会人として企業社会に溶け込みながら、稼ぎの多くを教団に献金することを修行としているオウム真理教信者のことである。

平田信、出頭により逮捕

その後、足取りは長く途絶えていたが、2011年(平成23年)12月31日、平田を名乗る人物が突如警視庁丸の内警察署に出頭。指紋照合にて本人と確定されたため、警視庁は翌日の2012年(平成24年)1月1日に監禁致死の容疑で平田を逮捕した。

布川事件−ふかわじけん

布川事件−ふかわじけん

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布川事件(ふかわじけん)は、1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件である。犯人として近隣に住む青年2人を逮捕・起訴し、無期懲役が確定したが、証拠は被告人の自白と現場の目撃証言のみで、当初から冤罪の可能性が指摘されており、2009年、再審が開始され、2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

布川事件−事件の概要

1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川で、独り暮らしだった大工の男性(当時62歳)が、仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見された。

茨城県警取手警察署による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の午後7時から11時頃であるとされた。男性は両足をタオルとワイシャツで縛られており首にはパンツが巻きつけられた上、口にパンツが押し込まれていた。死因は絞殺による窒息死であると判明した。現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。ただし、男性は個人的に金貸しを行っており、現金や借用書などが盗まれた可能性があった。唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかったことである。また、現場からは指紋43点が採集された。

男性の自宅付近で午後8時ごろに不審な2人組の男性の目撃情報があり、その情報から桜井昌司(当時20歳)と杉山卓男(同・21歳)の2人が別件逮捕され、2ヵ月後に起訴された。

布川事件−裁判

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公判で両人は「自白は取手警察署刑事課刑事に強要されたものである」として全面否認したが、1970年10月6日に第一審の水戸地裁土浦支部は無期懲役とし、1973年12月20日の第二審の東京高裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴を棄却し、1978年7月3日に最高裁で上告が棄却され、2人とも無期懲役が確定した。

収監された二人は1996年11月の仮釈放後も無実を訴え、民間人の有志による「布川事件守る会」が2001年12月6日に第二次再審請求(1回目は収監中の1983年12月23日に行われ棄却された)を水戸地裁土浦支部に申立て、同支部は2005年9月21日に再審開始を決定した。

これに対して検察側が東京高裁に即時抗告するが、2008年7月14日、東京高裁(門野博裁判長)は棄却して再審開始決定を支持する。東京高検の鈴木和宏次席検事は「内容を十分検討し、最高検とも協議のうえ適切に対処したい」と述べ、その後、最高裁判所に特別抗告するが、2009年12月15日、最高裁(竹内行夫裁判長)は、検察側の特別抗告を棄却し再審開始が確定。

2010年7月9日に水戸地方裁判所土浦支部にて再審第1回公判が開かれる。以後6度の公判を重ね、判決は2011年3月16日に言い渡しを予定していた。しかし直前に発生した東日本大震災(3月11日)の影響により判決公判が5月24日に延期となった。

2011年5月24日、仕切り直しの判決公判が行われ、被告の両名に無罪判決が言い渡された。なお、検察側は「新証拠の提示は出来ず有罪判決を得るのはほぼ不可能」として期限切れまで控訴せず、確定させる方針。

冤罪事件−布川事件

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昭和42年(1967年)8月30日の朝、利根町布川で独り暮しの老人が自宅で殺害されているのが発見された。被害者は、玉村象天(たまむらしょうてん)さん(当時62才)で、その発見者によると、この日玉村さんに大工仕事を頼みに来て声を掛けたが、庭に自転車があるのに返事がないので、不思議に思って勝手口の戸を開けてみると、8帖間で玉村さんが殺害されていたということでした。

 警察の検証記録によれば、現場の状況はおよそ次の通りです。

被害者宅の玄関と窓は施錠されていたが、勝手口がわずかに開いていた。
便所の窓が開いており、木製の桟が2本はずされて外に落ちていた。
8帖間と4帖間の境のガラス引戸が2枚とも4帖間側の方に倒れ、割れたガラスがあたりに散乱していた。
8帖間の押入の前の床板が割れていて、そのV字形に落ち込んだ所に被害者が倒れていた。
被害者は、両足をタオルとワイシャツで縛られ、口の中にはパンツが押し込まれた上、首にもパンツが巻きつけられて窒息死していた。
室内には、寝具、衣類などが散乱し、ロッカ−、机の引出し、タンス等に物色の跡が見られた。
室内の蛍光灯は、8帖間、4帖間とも点灯していた。
合計43点の指紋が採取されたが、犯人に結びつくものはなかった。
 何が盗られたかは不明だったが、日ごろ使用していた<白い財布>が見当たらないので、それが被害にあったものと思われました。

検屍の結果、被害者は8月28日の午後7時から11時頃に首を絞められて殺されたものと推定された。被害者の玉村象天さんは、日頃から近所付合いが少なかったため、なかなか有力な情報が得られなかったが、それでも現場周辺の聞込捜査を続けた結果、当日の足取りは午後6時30分頃に吉岡宅の大工仕事を終え、その後7時〜7時30分頃に工事代金の取立てのため米元方に立ち寄り5分位話をして帰った、ということが判明した。

 当時の新聞記事によれば、「 28日の夜7時30分から8時30分頃、ふたりの男が被害者宅付近にいた。そのうちの1人は被害者の家のあがりはなに立ち、他の1人は壁のほうにいた。1人は背が高い男であった。」という情報が得られ、結局、この「 2人連れの男 」が犯人ではないかという推定で捜査が進められた。

 利根町、布佐町、そして竜ヶ崎市(一部)にわたって地取り捜査が行われ、前科者、素行不良者、被害者から多額の金を借りていた者などでアリバイのはっきりしない者を対象に捜査が続けられたが、10月初旬には捜査が行き詰まってしまった。この間、捜査線上に浮かび上がった対象者は、総勢180名前後にものぼったが、アリバイ捜査の結果、最後に残ったのが桜井昌司さんと杉山卓男さんだった。そして、10月10日になって桜井さんが、ズボン1本の窃盗容疑で逮捕され、続いて10月16日には杉山さんが暴力行為の容疑で逮捕されたのです。

 ふたりは、それぞれ警察の取調で『 自白 』を強要され、その『 自白 』を根拠に、裁判で無期懲役の判決を受け、29年間も刑務所に囚われた末に、平成8年11月相次いで仮釈放となりました。



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