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死刑囚【注目リスト】

袴田死刑囚、DNA鑑定へ…静岡地裁

袴田死刑囚、DNA鑑定へ…静岡地裁

静岡県清水市(現・静岡市清水区)で1966年、みそ会社専務一家4人が殺害された「袴田事件」の第2次再審請求審で、静岡地裁は23日、犯行時の着衣とされた衣類についた血痕が袴田巌死刑囚(75)のものかを調べるため、死刑囚本人のDNA鑑定を初めて実施する方針を示した。

 同日開かれた地裁と静岡地検、弁護団の三者協議後、弁護団が明らかにした。

 確定判決で、犯行時の着衣とされた衣類には、袴田死刑囚や被害者の血が付着していると認定された。だが昨年12月に地裁が開示したDNA鑑定は、血痕が被害者のものかを調べることが目的で、袴田死刑囚のDNA鑑定は行われなかった。

 弁護団は「衣類は袴田死刑囚のものではない」と主張しており、この主張を補強するため、袴田死刑囚のDNA鑑定を求めていた。2月3日の三者協議で鑑定方法の細部を詰めるという。

尾形英紀死刑囚(33) 死刑囚の真実

尾形英紀死刑囚(33) 死刑囚の真実

plt1007281632004-p2尾形英紀さん(東京拘置所)
熊谷男女4人拉致殺傷事件(2003.8.18)
1977年7月20日生まれ
2007年4月26日 さいたま地裁(飯田喜信)にて死刑判決
2007年7月18日 控訴取下げにより死刑確定

尾形英紀死刑囚(33) 死刑囚の真実

死刑囚の気持ちや考えを聞いてもらえる機会を与えてくれてありがとうございます。
 事件を起こしてから現在に至るまで、考える事や納得のいかない事が数多くありすぎて、それをすべて書いていたのでは、何十枚も書くことになってしまうので簡単に書きます。
 まず、事件についてですが、見張り程度しかしていない共犯が2人います。
 すべて俺のやった事ですが、4人を殺そうとして2人を殺害、2人は殺人未遂の事件です。
 事件当時の俺は、かなりの酒を飲んでいたためと、あまりにも興奮していたので、ほとんど記憶がありません。ただ、あまりにも強烈な印象がある部分だけが、はっきりと記憶に残っています。
 しかし、それでは警察も検事も都合が悪いので、事件当日の行動の大まかな所は、共犯の記憶などを総合して作り、もっとも大事な部分は刑事と検事が作りあげたストーリーが裁判で認められてしまいました。それは最初から殺害の話し合いをしてから殺しに行ったというのですが、全くのウソなのです。
 裁判では、不利になるのは分かっていましたが、殺意を持った事を認め、いつの時点で殺意を持ったかも証言しました。
 実際には暴行している時に被害者が死にそうになった時にはじめて「それなら殺してしまえ」と思ったのです(その時の精神状態では、そのようにしか考えられなかったのです)。それ以前は殺意はもちろん、死ぬ可能性すら考えもしませんでした。
 しかし、検事と刑事の調書にははじめから殺意を持って行動したとなっていました。何でその様な調書になったのかと言うと共犯も証言していますが、共犯2人が事実と違うのは分かっていたけど無理やりにサイン・指印をされ、俺の調書は最後のページのサインがある所以外を差し換えられました。警察と検事はあたり前の様に不正をしているのが現状で、不正をかくすためには裁判の証人尋問で平気でウソをついています。しかも裁判も全くの茶番で検事の言う事をすべて認定してしまいました。
 殺意についての証人尋問で刑事と検事の言っている事がくい違い、苦しまぎれに少しだけ、俺の言っている事が正しいと刑事が証言したにも関わらず、俺の言っている真実は都合が悪いからはじめから聞く気がありませんでした。完全に結果ありきの裁判です。
 一審で2度にわたり精神鑑定を受けました。一度目は裁判所が認定した先生でした。その先生はよく調べてくれ、調書よりも俺の証言の方が信用できると証言してくれました。それは俺の言っている方が精神医学上もふくめ自然であり、しかも俺の証言は自分にとって不利になる事まですべてを言っているからです。その結果、部分的ではあるが(1人目殺害)、責任能力がいちじるしく低下していたと判断されました。
 その為に検事が納得せずに2度目の鑑定となったのです。2度目の先生は検事の推薦した人であり、検事の犬になり下がった人でした。当時の俺の考えなどは1度も聞く事もなく、ただ事件の経過を聞いただけで、すべて検事や刑事の調書を参考に鑑定書を作ったのです。
 はじめからやる気のない鑑定士を採用し、驚くことに裁判では、一度目に真面目にやった先生の鑑定を棄却し、やる気のない検事の犬の鑑定を採用したのです。
 俺は責任を逃れたいのではなく、今の日本の裁判や刑事や検事のやっている事が許せないのです。一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、まして調書の改ざんなんてあたり前にやっているのです。だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になる事はないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出れるので皆、我慢しているのです。俺の殺人などは事実は変わりませんが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています。
 検事の主張ばかり聞く裁判は不公平ですが、一般の人から見れば刑事や検事の言ってる事は無条件で信じられるのだから、来年から始まる裁判員制度では冤罪も今まで以上に多くなると思います。
 事件に関して長くなってしまいましたが、死刑囚が考える死刑制度について、一般市民の考えているものとは違う所もあるかと思うので書かせてもらいます。
 収容者と話す事はありませんが、他の死刑囚を見ると本当に殺人をやった人なのかと疑えるほど普通の人です。俺はぐれ始めてから、ヤクザやその他のアウトローを社会や少年院、刑務所で数多く見てきましたが、それらの人達と比べてもかなり気の弱くおとなしい印象です。きっと心から反省しているので、そう見えるのかもしれませんが、俺はそれだけでなく、本当に普通の人達なのだと思います。
 どの様な事件を起こしたのか知りませんが、色々な理由により精神状態が乱れ、普段ならまともに判断できる事が出来なかっただけなのだと思います。だから、誰にでも死刑囚になる可能性はあると思います。
 自分の気持ちは後で書きますが、本当に心から反省している死刑囚を執行する事で本当に罪を償う事になるのでしょうか? 罪を背負って生きていく事が、本当の意味での償いになるのではないかと思います。日本人の美徳として死者に対して悪く言ったり思ったりしない所がありますが、何か問題を起こしたり、犯罪を犯した後に自殺をする人達に対して、一般の人の中には責任を感じての自殺、アウトローの人の中にはケジメをつけたという考えをする人がいます。本当に自分自身でケジメをつけたと思える人もいるので、すべてを否定はしませんが、俺には、つらい事から逃げただけにしか思えない事のほうが多いと思います。被害者や遺族の感情は自分で犯人を殺したいと思うのが普通だと思います。今は連絡を取っていませんが、両親・姉・元妻との間に二人の娘がいます。俺だって家族が殺されたら犯人を許すことはないし、殺したいと思うのがあたり前です。
 しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きてきた世界と同じです。死刑という名の殺人を国家権力がやっているにもかかわらず、国民にどんな理由があろうと殺人を禁ずるのはどういうわけだ。世界では色々な所で国家による虐殺があったようだが、それと日本の死刑とどこが違うのか?
日本の法律にのっとり死刑があるように、虐殺のあった国にもその国の法律(権力者)にのって死刑にしただけだろう。
 色々と考えながら書いているので、ちょっと興奮してしまいました。
 死刑囚を助ける活動をしている先生に対して言う事ではないし、やつあたりの様な事を書いてしまったので、書きなおそうとなやみましたが、俺の考えでもあるので、失礼は承知のうえ、このまま続けさせて頂きます。話を戻します。
 俺の考えでは死刑執行しても、遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。
 俺個人の価値観からすれば、死んだほうが楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。死を覚悟している人からすれば、死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれているだけです。だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。
 死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。
 なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。
 もちろん他の死刑囚は日々反省していることと思います。俺は、ただでさえ東拘には人権など全くないし、24時間カメラで監視され独居にいて、執行されるのを待っている中で、事件や遺族・自分の家族の事を考えていたのでは気がおかしくなるし、ストレスだらけで、そんな余裕すら1秒もありません。  
 俺のように反省する気がない死刑囚もいる中で、ほとんどの死刑囚は日々反省し、被害者の事も真剣に考えていると思います。そういう人達を抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?
 俺が執行されたくないのではありませんが、その様な事などを考えれば、死刑制度は廃止するべきです。
 言いたい事が色々と多く長くなってしまいましたが、切りがないので、この辺で失礼します。今の気持ちを伝える機会を頂き、ありがとうございました。
 
 追伸
 最近、執行が多くなりましたが、執行について意見があります。
 執行時に求刑・判決を出した検事・裁判官それに法務大臣らが自ら刑を執行するべきです。それが奴らの責任だと思います。
 それと執行時・その後に死刑囚の希望があった場合、絶対に経をあげてはいけないようにして下さい。俺は宗教が嫌いだし、経は死者に対してではなく、生きている人達の気やすめでしかありません。俺の執行時・執行後は絶対に宗教関係の事はやらないようにお願いします。

冤罪疑惑 久間三千年

久間三千年 飯塚事件、再審請求へ DNA新証拠提出目指す

 福岡県飯塚市で1992年、女児2人が殺害された「飯塚事件」で死刑が確定、昨年10月に執行された久間三千年元死刑囚=当時(70)=の遺族が今秋にも再審請求(死後再審)する方針を固めたことが5日、弁護団への取材で分かった。弁護団は菅家利和さん(62)の再審無罪が確定的となった足利事件と同様、DNA型鑑定をめぐる新証拠の提出を目指す。

 弁護団によると、飯塚事件は足利事件とほぼ同時期に、同じ「MCT118」という検査法で、DNA型鑑定が実施された。被害者の遺体に付いた血液と元死刑囚のDNA型が一致したとされ、確定判決の根拠の一つとなっている。

 血液は残っておらず、足利事件のようにDNA型を再鑑定することはできない。ただ血液から抽出された犯人のものとされるDNA型はMCT118の「16−26」タイプで、元死刑囚の遺族のDNA型と比較するなどして誤りを見つける。

 「16−26」タイプは足利事件の旧鑑定で、被害者の衣服に残った体液や菅家さんのDNA型とされたが、再鑑定では異なる結果となった。

 確定判決によると、元死刑囚は92年2月、飯塚市内の路上で小学1年の女児2人を車に乗せて誘拐し、首を絞めて殺害するなどした。94年の逮捕以降、一貫して無実を訴えていた。

飯塚2女児殺人事件 久間三千年

飯塚事件 久間三千年 冤罪疑惑

飯塚事件 久間三千年

:再審請求へ DNA鑑定の信用性争点に
 92年に福岡県飯塚市で女児2人(共に当時7歳)が殺害された「飯塚事件」で殺人罪などに問われ、08年10月に死刑が執行された久間三千年(くま・みちとし)・元死刑囚(執行時70歳)について、弁護団は5日、今年秋以降に再審を請求する方針を明らかにした。公判では「足利事件」と同じ方法のDNA鑑定を巡って検察・弁護側が争っており、弁護団は改めて鑑定の信用性を問い直したい考え。

 弁護団によると、久間元死刑囚は再審準備中に死刑が執行された。再鑑定する試料は既に残されていないが、弁護団の岩田務弁護士は「当時の鑑定の不備を裏付けられるものであれば、再審開始に必要な新証拠となり得る」としている

飯塚2女児殺人事件 久間三千年

飯塚2女児殺人事件 久間三千年

飯塚2女児殺人事件 久間三千年

事件当時年齢:54歳

犯行日時:1992年2月20日

罪状:殺人、略取誘拐、死体遺棄

事件名:飯塚2女児殺人事件

事件概要:1992年2月20日朝、久間三千年(くま みちとし)被告は福岡県飯塚市の小学1年女児2人(ともに7)の登校中に自分のワゴン車へ誘い込み、市周辺で首を絞めて殺害、同日11時ごろ、福岡県甘木市野鳥の雑木林に遺体を捨てた。福岡県警は1994年9月、DNA鑑定の結果、遺体周辺の血痕と久間被告のDNAの型が一致したなどとして、久間被告を死体遺棄容疑で逮捕した。

拘置先:福岡拘置所

死刑執行:2008年10月28日 70歳没
 弁護団は再審準備中だった。

久間三千年は、冤罪?

飯塚2女児殺害 久間被告最高裁も死刑 上告棄却「証拠疑いない」

 福岡県飯塚市で1992年、小学1年の梅野裕莉ちゃんと中川藍ちゃん=ともに当時(7つ)=を連れ去り、殺害したなどとして誘拐と殺人罪などに問われ1、2審で死刑を言い渡された無職久間三千年(みちとし)被告(68)の上告審判決で、最高裁第2小法廷は8日、被告側の上告を棄却した。死刑が確定する。

 久間被告は捜査段階から一貫して無実を訴えてきたが、滝井繁男裁判長は「被害者の衣服に残った繊維の鑑定など、それぞれ独立した証拠で認められる状況事実から犯人であることに合理的疑いはない。性的欲望を遂げようとした卑劣な動機に酌量の余地はなく、犯行は冷酷非情。死刑の判断は是認せざるを得ない」と判決理由を述べた。

 最高裁が死刑を支持して上告を棄却した判決は、今月3件目。すべて確定すると、拘置中の死刑囚は91人となる。

 判決によると、久間被告は92年2月20日、飯塚市内の路上で登校途中の女児2人をワゴン車に乗せて誘拐。首を絞めて殺害した上、遺体を山中に捨てた。

 滝井裁判長は(1)被害者2人の衣服に被告が使っていた車のシートのものとみられる繊維片が残っていたとの鑑定結果(2)被告の車から見つかった血痕の血液型が被害者の1人と一致し、DNA型も同じ特徴があること(3)遺体に付着していた血液の型は被告と一致し、DNA型も被告のDNA型の一部と一致するとみて矛盾しないこと−などから被告を犯人と認定した。

久間死刑囚は無実では?

 弁護側は上告審弁論で「1審福岡地裁と2審福岡高裁の有罪の根拠は状況証拠しかなく、DNA鑑定は精度や実施方法に問題があり、信用できない」と主張していた。

 久間被告は目撃情報などから、発生の約2年7カ月後に逮捕された。

■再審請求を検討 岩田務・主任弁護人の話

 上告審で有罪の根拠とされたDNA、繊維、血液の鑑定はずさんだ。あやふやな証拠を寄せ集めて、国が人の命を奪うのは、弁護人として憤りを覚える。日本の裁判システムは、科学的証拠について科学警察研究所のいいなりになっている。これを評価する第三者機関をつくらなければ、捜査機関の鑑定がまかり通ってしまい、冤罪(えんざい)事件が繰り返される。久間さんは犯人ではない。今後、新証拠をどう集めるかという問題はあるが、弁護団として再審を請求する方向で考えている。

▽飯塚2女児殺害事件

 1992年2月20日、福岡県飯塚市で、登校途中の小学1年生の女子児童2人=いずれも当時(7つ)=が行方不明になり、翌21日、同県甘木市(現朝倉市)内の山中から遺体で発見された。死因は首を絞められたことによる窒息死だった。

謎を残したままの久間三千年

 同県警は、失跡当日に被害者の遺留品発見現場で目撃されたワゴン車を手がかりに、DNA鑑定や車内の血痕、遺体に付着した繊維片などの状況証拠から、94年、殺人などの疑いで、久間三千年被告を逮捕した。被告は逮捕段階から一貫して容疑を否認、裁判でも無罪を主張したが1、2審とも死刑判決だった。

久間三千年 冤罪の可能性

久間死刑囚「『否』貫く」 市民団体に再審請求伝える

福岡拘置所で刑を執行された女児2人誘拐殺人事件の久間三千年死刑囚(70)は、捜査段階から一貫して無罪を主張してきた。11日に市民団体が開いた世界死刑廃止デー(10日)のイベントにも「有罪の直接証拠がないまま、ひとりの人間に『死』を宣告してはばからないこの国の司法に対して私は『否』を貫き通します」とのメッセージを寄せた。

 久間死刑囚は市民団体に「今後、再審請求する予定」と伝えていた。

 メッセージで久間死刑囚は「警察が証拠を捏造して逮捕した」と主張。逮捕からの14年を「社会から完全に隔離され、孤独のなかで人間としての権利と無実という真実を奪われてきた。これは大きな人権侵害だ」と訴えていた。

警察庁指定117号事件(埼玉東京連続幼女殺人事件) 宮崎勤

警察庁指定117号事件(埼玉東京連続幼女殺人事件) 宮崎勤

事件当時年齢:26歳

犯行日時:1988年8月〜89年6月

罪状:殺人、誘拐、死体損壊、死体遺棄、わいせつ目的誘拐、強制わいせつ

事件名:警察庁指定117号事件(埼玉東京連続幼女殺人事件)
宮崎勤 死刑囚事件概要:無職宮崎勤被告は1988年8月から1989年6月にかけて、当時4歳から7歳の幼女4人を誘拐。全員を殺害して、遺体を山林などに捨てた。また、1989年7月には東京都八王子市で当時6歳の女児を連れ歩き、裸にした。「警察庁指定117号事件」の概要は以下。
●1988年8月22日夕方、入間市内を歩いていた幼女(当時4)に声をかけ、八王子市内の山林に連れ出したが泣き出したので絞殺。遺体をビデオに撮った後、衣服を持ち帰る。1989年2月、自宅裏庭で骨などを砕いて焼いた後、2月6日、幼女の骨片や歯などが入ったダンボールを、幼女の家の玄関に置いた。
●1988年10月3日、飯能市の小学校付近で遊んでいた幼女(当時7)を誘拐し、車で五日市町の山林に連れ去り殺害。
●1988年12月9日、川越市の自宅団地のそばで遊んでいた幼女(当時4)を誘い出し、殺害。近くの山林に遺体を捨てた。
●1989年2月10日、朝日新聞社宛に、誘拐、殺害の詳細を綴った「今田勇子」名義の手紙を送った。
●1989年6月6日、東京都江東区の公園で遊んでいた幼女(当時5)を誘拐して悪戯、殺害。遺体を自宅に持ち帰り、ビデオ撮影。二日目には遺体を切断し飯能市の霊園などに捨てた。
●1989年7月23日午後、八王子市で遊んでいた幼女(当時6)に声をかけて車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしたところ、尾行していた幼女の父親に捕まった。

拘置先:東京拘置所

死刑執行:2008年6月17日 45歳没
 宮崎死刑囚の弁護人は、再度の精神鑑定と刑の執行停止を求める書面を5月末に法務省に提出していたが、鳩山法相は「再審が必要だという具体的な理由が主張されているわけでもなく、裁判でも完全な責任能力が認められている。慎重に調べて執行した」と説明した。
 宮崎死刑囚の弁護人は再審請求について宮崎死刑囚から依頼を受け、2008年2月ごろから準備を進めていた。宮崎死刑囚は東京拘置所で精神科の治療を受けていたといい、専門家に意見書の執筆も依頼していた。

免田事件(冤罪)免田栄

免田事件(冤罪)免田栄

免田事件経緯:昭和23年12月30日午前3時頃、熊本県・人吉市の祈とう師、白福角蔵(当時76歳)、妻のトキエ(当時52歳)、長女(当時14歳)、次女(当時12歳)の一家4人が就寝中に、何者かに鉈(なた)でメッタ打ちにされたうえ、包丁で喉をつかれて両親が即死、娘二人も重傷を負っているのを、夜警見回りしていた次男が発見した。

翌年の昭和24年1月13日深夜、人吉警察署は同県・免田村の免田栄(当時23歳)を窃盗容疑で別件逮捕する。免田は当時、植林の仕事を手伝っており、山小屋で就寝中に刑事が上がり込んで来て逮捕された。
何故、免田が容疑者として捜査線上に浮上してきたのか、今でも明確になっていない部分が多い。が、当時の状況から(鉈=植林)、(事件内容を周囲の人間に詳しく話していた?)などが重なり重要参考人としたことが推測される。
免田事件(冤罪)■免田事件凄まじい拷問と脅迫:免田に対する取り調べは想像を絶する厳しさで、2日間はまったく食事をさせず、不眠3日間。取調べは、免田に殴る・蹴るは勿論のこと、「地獄に落としてやる!」、「早く自供して楽になれ!」などと免田を脅迫した。不眠4日目、暖房の無い極寒の独房室で免田は、意識がもうろうとしていく。もう、限界で楽になりたいという気持ちから「犯行を自供」したのだった。

免田事件証拠隠滅

免田は、一審の第三回公判で「拷問によって自白を強要された」として、以降の公判では「全面的に容疑を否認し無罪」を訴える。検事側は、白福一家殺しで使われたとする鉈や免田が犯行時に着ていたとする血痕が着いているズボン、マフラーを熊本地検で保管中に破棄するなど証拠隠滅を行う(その後の鑑定を恐れた警察側が隠滅した可能性が極めて高い)。

免田事件アリバイの争点

警察は、犯行は12月29日の深夜から翌日の午前3時の間と断定した。そこで、免田の12月29日のアリバイの有無が焦点となった。免田は、29日午後、丸駒という特殊飲食店に宿泊し、接客婦(当時19歳)と一晩を過ごして翌30日は友人宅に泊まった(前述の山小屋)と証言した。

ところが、警察は接客婦に対して「免田と宿泊したのは30日だ」と誘導し供述書を取った。従って、犯行日の29日の免田のアリバイは成立しないと主張。これで免田の29日のアリバイが完全に葬られた。

免田事件冤罪活動

免田は無実を訴えるが、昭和25年3月23日一審の熊本地裁・八代支部は免田に死刑を言い渡した。昭和26年3月二審の福岡高裁は免田の控訴を棄却。昭和27年1月5日最高裁は免田の上告を棄却して死刑が確定した。

だが、免田は「自分は絶対に無実である」と獄中から訴え続ける。昭和27年6月10日の第一次再審請求をかわきりに第6次まで再審請求を続けた。この間、免田を支援する日弁連や市民団体の活動もあり、昭和54年9月27日福岡高裁は再審開始の決定をした。
免田栄 冤罪事件■免田事件無罪確定:昭和58年7月15日、熊本地裁・八代支部(河上元康裁判長)は、免田に対して無罪を言い渡し、即日釈放を命じた。日本裁判史上初めての《「死刑囚の再審無罪判決》だった。

村上裁判長はこの判決で、免田の自供は強要されたものと認め、免田のアリバイは成立していると断じた。
?29日、免田は丸駒に入り接客婦と一夜を共にしたことが、この店主の職員手帳に記載されている(免田は1100円を支払って、この内接客婦が300円を取り、残りの800円を丸駒の店主に預けた)。村上裁判長が、この職員手帳を取り寄せて仔細に確認すると、確かに昭和24年12月29日に800円と記載されていた。

?30日、友人宅に宿泊したとする証言では、免田が友人宅に向かう途中、知り合いのAさんと出会った。Aさんは、その日が米の配給日の30日だったと証言。そこで、Aさんの米配給手帳を取り寄せて確認すると確かに昭和24年12月30日に米配給を受けていたことが判明した。

さらに、検察側の主張する免田の逃走経路に不自然な行動が目立ち、動機も明確になっていない。これらの事実を鑑みた時、免田が犯行に至ったことはありえないと断じて完全無罪を言い渡した。

再審請求は、「針の穴にラクダを通すようなもの」と言われるほど難しい。これは、再審開始の要件は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した時」とされているからだ。明らかな証拠=明白性の要件、あらたな発見=新規性の要件。この2つの要件は、真犯人が現れるか、アリバイを完全に立証できなければならない。よって、この無罪判決は法曹界では画期的な出来事だった。

弁護団は言う。「警察(検事)は2つの大罪を犯した。1つは、1人の無実の人間を死刑台に送ろうとしたこと、2つは真犯人を永久に取逃がしたこと」。
免田は無実を勝ち取るのに34年と6ヶ月を要し、出所した時には、頭髪に白いものがまじる57歳になっていた。

免田事件の概要

■免田事件(めんだじけん)とは1948年に起こった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つである
1948年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、娘二人(14歳女性と12歳女性)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)在住の免田栄(当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した。この3日間余りの間、警察は免田に拷問と脅迫を加え、自白を強要させていた。同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第一審の第三回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日には特殊飲食店の女性と遊興しておりアリバイがあるとして無罪を主張。

警察はアリバイの捜査を行うが、アリバイ証人に対し「一緒にいたのが翌日」というように証言を誘導させた。また、検察は証拠品である凶器の鉈、免田が犯行時に着ていて血痕が付着していたとされる法被・マフラー・ズボンなどを廃棄するという証拠隠滅とも思える行動をとっている。

免田事件死刑判決

1950年3月23日、熊本地裁八代支部は死刑判決を言い渡す。免田は控訴するが1951年3月19日に福岡高裁で控訴が棄却される。更に免田は上告するが、1952年1月5日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。

免田事件無罪判決

1968年、国会に死刑囚に対する再審改正法案が提出されるも翌年の1969年に廃案。その代わり、当時の法務大臣である西郷吉之助が、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して特別恩赦を約束(関連項目参照)。免田氏も特別恩赦が検討されたが実現せず。

免田は再審請求を行うが、第5次請求まで全て棄却された(第3次請求は地裁では再審の開始が決定されたものの、検察の即時抗告により高裁で取り消された)。そして第6次再審請求が承認され、1979年9月27日に再審が開始される。

再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘され、1983年7月15日、発生から34年6ヶ月後、無罪判決が言い渡された。

刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7ヶ月の拘禁日数12,559日に対して免田に9,071万2,800円の補償金が支払われた。

釈放後の免田栄

無罪が確定されたにもかかわらず、その後の免田に対する批判が続いた。当時としてはけた違いの多額の補償金を何に使ったとか、出所後の行動(女性関係など)を週刊誌が報道したりした。

また落語家立川談志がラジオ番組において「ぜったいやってないわけないんだよね」と話し、後に謝罪する事件が起きた。

2007年9月27日放送の「午後は○○おもいッきりテレビ」内の「きょうは何の日」のコーナーで、現在の免田のインタビューが放送された。

週刊朝日など数社の週刊誌に、「あの人は今」のようなコーナーで写真つきインタビューが掲載された。刑事補償金の半額以上を弁護団や支援団体に謝礼として渡したこと、拘置所にいた間は年金に加入できず現在も年金は受け取ってない状態であること、無罪確定後に結婚した妻と2人で細々と暮らしていること、ほぼ毎日釣りに出かけていること、無罪確定から数十年を経た現在も社会には偏見があり、なかなか一般の人との付き合いは難しいことなどを語っている。これは地元では特に根強く、公共の場で冤罪であると発言することすらはばかられる事もある。なお、免田は拘置所から出所後、いったん地元に帰ってきて歓迎されたが、真犯人が不明なことや巨額の補償金を受け取ったことなどで、地元で平穏に暮らせず、他の市に引っ越した。

ある死刑廃止運動の会合で免田は佐木隆三に出会う。佐木の著書「曠野へ―死刑囚の手記から」に登場した実在の死刑囚、川辺敏幸と同じ拘置所だったこと、さまざまな死刑確定囚を見てきたが、川辺ほど竹を割ったような性格の男はいなかったことなど発言している。また川辺も佐木に、拘置所のソフトボール大会で免田と楽しんだ思い出を語っていた。

免田は複数の著書を出版しており、それらの中で自身の体験をつづるとともに、死刑制度の廃止を主張している。現在は人権の大切さを訴える講演を全国各地で行っている。2001年には、フランスのストラスブールで行われた第1回死刑廃止世界会議に参加した。また、2007年には国際連合本部(ニューヨーク)で行われたパネルディスカッションにおいて自らの主張を訴えた。

死刑囚 リスト 死刑執行リスト

死刑確定囚リスト 死刑執行リスト

死刑執行者の事件簿を記載しています。犯罪発生から、死刑執行までの犯罪記録を集約しています。今まで、明らかにされなかった犯罪記録をご覧ください
死刑囚リスト 死刑執行リスト 下記リンクをクリックすると詳細がごらんになれます。
警察庁広域重要指定113号事件他 藤原清孝
名古屋保険金殺人事件 長谷川敏彦
覚醒剤殺人事件(前妻一家殺傷) 藤波芳夫
赤穂同僚妻子殺人事件 名田幸作
熊本母娘殺人事件 森川哲行
飲食店女性経営者殺人事件 高田勝利
幼女殺人事件 佐藤真志
大宮母子殺人事件 佐川和男
学童誘拐殺人事件 津田暎
パチンコ景品商殺人事件 島津新治
直方強盗女性殺人事件 武安幸久
長崎3人殺人事件 村竹正博
警察庁広域重要指定108号事件(少年連続射殺事件) 永山則夫
父親等3人殺人事件 神田英樹
日建土木事件 西尾立昭
元昭石重役一家殺人事件 今井義人
銀座ママ殺人事件他 平田光成/野口悟
夕張保険金目当て放火殺人事件 日高安政/日高信子
神田ビル放火殺人事件 石田三樹男
群馬2女性殺人事件 篠原徳次郎
福岡病院長殺人事件 杉本嘉昭/横山一美
女子中学生誘拐殺人事件他 平田直人
東村山暑警察官殺人事件 田中重穂
秋山兄弟事件 秋山芳光
名古屋女子大生誘拐殺人事件 木村修治
名古屋保険金殺人事件 井田正道
裕士ちゃん誘拐殺人事件 須田房雄
青森旅館殺人事件 佐々木和三
群馬3女性殺人事件 安島幸雄
広域連続殺人事件 川中鉄夫
大阪電解事件 出口秀夫/坂口徹
徳島二老人殺人事件 藤岡英次
世田谷老女強殺事件 関幸生
保険金目当実母殺人事件等 立川修二郎
長崎雨宿り殺人事件 小野照男
釧路薬局一家殺人事件 小島忠夫
長野・愛知連続4人強盗殺人事件 西本正二郎
愛知 ドラム缶焼殺事件 川村幸也 野村哲也
北九州母娘殺傷事件 牧野正
猟銃近隣3人殺人事件 池本登
隣家親子3人殺人事件 大石国勝
先妻家族3人殺人事件 宮脇喬
練馬一家5人殺害事件 朝倉幸治郎
母子等3人殺人事件 向井伸二
宝石商殺人事件 中元勝義
2主婦連続強盗殺人事件 松原正彦
大学生誘拐殺人事件 春田竜也
岐阜一家三人殺人事件 浜田美輝
熊本・菊地町保険金殺人事件他 嶋崎末男
高知・偽装トリプル殺人事件 福岡道雄
福田孝行 山口県光市母子殺害屍姦事件
千葉・高知連続殺人事件 北川晋
広島女性4人連続殺人事件 日高広明
福岡・赤池町保険金殺人事件 小田義勝
東京、神奈川、香川、徳島4都県殺人事件 田中政弘
今市連続殺人事件 竹澤一二三
富山社長夫婦殺人事件 瀬川光三
東京連続強盗殺人事件 岩本義雄
地下鉄短大生殺人事件 萬谷義幸
江戸川区老母娘強盗殺人事件 府川博樹
大阪小学校児童殺傷事件 吉岡守
警察庁指定112号事件 藤間静波
徳之島兄家族殺傷事件 名古圭志
元同僚殺害事件他 中村正春
逆恨み殺人事件 持田孝
群馬県大胡町女子高生誘拐殺人事件 坂本正人
2件保険金殺人事件 山崎義雄
資産家老女ら2人殺人事件 秋永香
SMクラブ連続殺人事件 陸田真志
いわき市母娘強盗殺人事件 高塩正裕
飯塚2女児殺人事件 久間三千年
牧場夫婦強盗殺人放火事件 平野勇
神戸市夫婦強殺事件 山本峰照
警察庁指定117号事件(埼玉東京連続幼女殺人事件) 宮崎勤
坂巻脩吉 鏡子ちゃん殺人事件
本山茂久 雅樹ちゃん誘拐殺人事件
自殺サイト殺人事件 前上博
大阪姉妹殺人事件 山地悠紀夫
川崎6人殺傷事件 陳徳通
宇都宮・宝石店放火殺人事件 篠沢一男
熊谷男女4人殺傷事件 尾形英紀
下関通り魔事件 上部康明
宮崎連続強盗殺人事件‐松田康敏
横浜・元妻一家3人殺害事件‐古澤友幸
三島女子短大生焼殺事件 服部純也
京都・神奈川親族連続強殺事件 松村恭造
須賀川市・祈祷師宅の信者6人変死事件 江藤幸子
熊本男女強盗殺人事件 松田幸則
小林薫 奈良小1女児殺害事件
武藤恵喜 名古屋市スナック経営者強殺事件
金川真大 土浦連続殺傷事件
市原市ファミレス組員2人射殺事件 浜崎勝次
市原市ファミレス組員2人射殺事件 宮城吉英
横浜中華街店主銃殺事件 熊谷徳久
中国人留学生強殺事件/DDハウス事件 加賀山領治
山梨・新潟連続殺人事件 藤島光雄

警察庁広域重要指定108号事件(少年連続射殺事件) 永山則夫

永山 則夫

(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)
永山則夫 連続ピストル射殺犯・永山則夫を逮捕事件当時年齢:19歳

犯行日時:1968年10月11日〜11月5日

罪状:窃盗、強盗殺人、殺人、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反

事件名:警察庁広域重要指定108号事件(少年連続射殺事件)

事件概要:永山則夫被告は1968年10月初め頃、横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗取。1968年10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(当時27)を射殺。その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(当時69)を射殺した。さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(当時31)を射殺して売上金約7000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(当時22)を撃ち殺し、売上金7000余円を奪った。翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。

拘置先:東京拘置所

死刑執行:1997年8月1日 48歳没

歴史を変えた永山則夫

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした元死刑囚である。

1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞しています。

永山則夫の生い立ち

1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。

1965年3月、板柳から東京に集団就職する。上京後は職を転々とし、どこも長続きしなかった。

■連続射殺事件:米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場至近で働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。

1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定する。この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。

獄中作家永山則夫

獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われ、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁による上告棄却により90年に死刑確定)。

1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会への入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二、佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論を行った。その一方で、1996年、ドイツ・ザール州作家同盟への正式入会を果たしている。

獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しい存在といえる。

永山則夫の死刑執行

1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報道。

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする複数の証言がある 。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたと言われている。

永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。

永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、遠藤の手によって散布された。

死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

永山則夫連続射殺事件

■永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、ピストルによる連続射殺事件である。警察庁による名称は「警察庁広域重要指定108号事件」である。

察は、一連の事件を警察庁広域重要指定108号事件と命名している。犯行現場と被害者は以下の通りである。

・東京 1968年10月11日 東京プリンスホテル(27歳ガードマン)
・京都 1968年10月14日 八坂神社境内(69歳警備員)
・函館 1968年10月26日 亀田郡(31歳タクシー運転手)
・名古屋 1968年11月5日 港区(22歳タクシー運転手)
いずれも横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだピストルにより、短期間のうちに犯行に及んだものであった。

1969年4月7日に一連の犯行に使用したピストルを持って予備校に金銭目的で侵入した所を、センサー反応で駆けつけた日本警備保障(現セコム)のガードマンに発見されるが、発砲してガードマンが怯んだ隙に逃走。しかし、警視庁が緊急配備を発令。数時間後、警戒中の代々木署のパトカーに発見され逮捕された。この様子は、番組内では直接犯人の名には触れなかったが、NHKのプロジェクトXの中で、この再現シーンが放送されたことがある。

裁判内容:永山則夫は、犯行当時19歳の少年だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために指名手配されたこともあり、当初から実名報道がなされた。この外にも、1965年に発生した少年ライフル魔事件でも同様であった。

10年を費やした1審の審議では、1979年に東京地方裁判所で死刑判決を受けたが、2審の東京高等裁判所では家庭環境・生育状況が劣悪であった事を情状酌量による減刑の理由として、1981年に無期懲役に一旦は減刑された。

しかし、最高裁は1983年に東京高裁の判決を破棄して、東京高裁に審理を差し戻し、1987年の東京高裁(第二次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑判決が確定した。

永山則夫心境の変化

永山則夫は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。

永山則夫はその後、獄中結婚した妻やその他の多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至った。永山則夫 連続ピストル射殺犯/永山則夫永山の支持者らは以上のように主張する。

永山基準:日本の死刑基準として

この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多く、永山基準と呼ばれる。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。

・犯罪の性質
・犯行の動機
・犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
・結果の重大性、特に殺害された被害者の数
・遺族の被害感情
・社会的影響
・犯人の年齢
・前科
・犯行後の情状
・殺害された被害者の数
この判例以降、4名以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱・自首を認定して無期懲役に減刑して判決をした事例(1980年の新宿西口バス放火事件(6人殺害)、1981年の深川通り魔殺人事件(4人殺害)や地下鉄サリン事件の林郁夫の例)を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。また、1名だけを殺害した殺人犯に対しては強盗や身代金目的誘拐など金銭目的ではなく、殺人の前科がない場合は、死刑判決を回避する傾向が長らく続いてきたが、近年は厳罰化の世論の影響で、被害者が1人であっても死刑判決が下されるケースが増えつつある
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