カミカゼニュース

死刑囚

強盗殺人の73歳男 死刑執行

強盗殺人の73歳男 死刑執行

平成16年に横浜市で料理店の経営者をけん銃で射殺したほか、東京の地下鉄渋谷駅で駅員に発砲して大けがをさせたとして強盗殺人などの罪で死刑が確定した73歳の男の死刑が、12日午前、執行されました。安倍政権で死刑が執行されたのは、ことし4月以来3回目です。

死刑が執行されたのは、平成16年5月に横浜市で中国料理店を経営していた当時77歳の男性をけん銃で射殺し、店の売上金40万円余りを奪ったほか、翌月の平成16年6月に東京の地下鉄渋谷駅で駅員をけん銃で撃ち、大けがをさせたとして、強盗殺人などの罪で死刑が確定した熊谷徳久死刑囚(73)です。安倍政権で死刑が執行されたのは、ことし4月以来3回目で、合わせて6人になりました。

また、今回の死刑執行で刑が執行されていない死刑囚は132人となりました。谷垣法務大臣は会見で「誠に身勝手な理由で尊い人命を奪った極めて残忍な事案であり、被害者や遺族にとって無念このうえない事件だ。裁判所で十分な審理を経たうえで最終的に死刑が確定した事実を踏まえ、慎重な検討を加えたうえで死刑の執行を命令した」と述べました。

「容認出来ない」

日本弁護士連合会の山岸憲司会長は「執行された死刑囚は、1審は無期懲役で、2審で死刑判決が言い渡され、裁判官の間でも死刑にすべきかどうかの意見が分かれた事件だった。社会的な議論が行われないまま繰り返し死刑が執行されるのは到底容認できない。死刑に関する情報を広く国民に公開し、有識者による会議を行うべきだ」とするコメントを出しました。

「やっと区切り」

死刑の執行について、殺害された男性の59歳の長男は「死刑執行の知らせを聞き大変驚きました。遺族にとって死刑は当然のことです。やっと区切りがついたように思います。死刑判決の確定後は何の情報もなく本当に長かったです。早く父の墓前に報告したいと思います」と話していました。
熊谷徳久死刑囚の死刑執行 料理店店主殺害
熊谷死刑囚 確定後「脱走企て武器作った」市民団体調査に
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熊谷徳久 横浜中華街店主銃殺事件

栗田源蔵 連続8人殺害事件

栗田源蔵 連続8人殺害事件

5年間で8人を殺害した栗田源蔵という人物は、2つの事件において、どちらの事件でも死刑判決を受けた日本ではまれにみる凶悪犯。栗田事件は死刑が執行されている事件であるが、古い事件の為、死刑事件としてではなく、日本事件簿に記録している。
20130723kurita004kurita昭和27年1月13日の夜、千葉県検見川町(現、千葉市)の民家に泥棒がはいり、同家の主婦・鈴木いわさん(当時63歳)と義理の姪・きみさん(当時24歳)が殺害された。さらに、犯人はきみさんを死姦し逃走した。国警千葉本部の現場検証の結果、指紋の押収に成功。この指紋が決定的となり同町の妹夫婦宅で居候をしている秋田県新成村出生の栗田源蔵(当時26歳)を逮捕した。捜査本部は、栗田を同事件で起訴する一方、類似事件の事情聴取を行った。

この類似事件とは、前年の昭和26年8月8日夜、栃木県小山町(現、小山市)の増山宅で乳児を寝かしつけていた妻の文子さん(当時24歳)を絞殺。死姦した後、タンスから衣類などを盗んで逃走した事件。

もう一つは、その二ヵ月後の10月10日夜、千葉県小湊町(現、天津小湊町)の興津駅の待合室で主婦の小林ふゆのさん(当時29歳)が長男(当時5歳)、長女(当時7歳)、次女(当時2歳)を連れ立っているところを「家まで送ってあげる」と栗田が声をかけた。しばらく歩くと『おせんころがし』と呼ばれる海に面した断崖絶壁の場所にさしかかった。ここで栗田は本性を現し、ふゆのさんに乱暴しようとした。驚いた長男が大声を出すと近くにあった石で長男を殴打し海に突き落とした。続いて長女、次女も海に突き落とした後、ふゆのさんに強姦。その後、絞殺して同じく海に突き落とした事件。幸いにも長女だけは、崖の途中にひっかかり一命を取り留めた。この「おせんころがし」の由来は、昔金亡者の父を戒めようと娘のおせんが身を投じた場所と言われ、荒れた海に身を投じると助かる確率はまず無いと言う。

栗田はこの2件の関与を否定。特に「おせんころがし事件」の日は秋田県下で窃盗をはたらいていたと主張した。捜査本部が調べた結果、実際に地元署では栗田を指名手配しており「アリバイがあるように見えた」。
この2件の類似事件とは別に、昭和27年8月13日千葉地裁は検見川の殺人事件に関して死刑判決を栗田に言い渡した。

二度目の死刑判決−栗田源蔵

千葉地裁で死刑判決が出た2ヶ月後の10月に国警栃木本部と小山地区警察の捜査官が収監されている東京拘置所の栗田を訪ねる。改めて小山の文子さん殺害に関して追及。その結果、12月27日までに自供を得る事に成功した。
さらに「おせんころがし事件」でも秋田県下で実際に窃盗したのは知人で、それを聞きつけた栗田が身代わりを約束し、自から犯人になることでアリバイを作っていたことが判明した。栗田はその後、おせんころがし事件も認めた。

この取調べ中、さらに昭和23年2月に二人の女性を殺害していたことも自供した。この女性は村井はつさん(当時17歳)と鈴木芳子さん(当時20歳)で、村井さんと鈴木さんは友人であった。栗田は両方に結婚の約束をしていた。やがて邪魔になった鈴木さんを殺害して静岡県原町(現、沼津市)の海岸に埋めた。村井さんは鈴木さんが失踪したことや嫉妬から、彼女の所在を栗田に聞いた。栗田は「芳子を殺した」と口を滑らせた。焦った栗田は村井さんも絞殺し同じ海岸に埋めたことが判明した。これで栗田は8人の殺害を全て自供した。戦後稀代の殺人鬼である。

宇都宮地裁は、検見川殺人事件以外の3件6人殺しで昭和28年12月21日に二度目の「死刑判決」を言い渡した。昭和29年10月21日栗田は「はやく楽になりたい」と控訴を取り下げ「死刑」を確定させた。

ところが、栗田は「死を受け入れることができなかった」。このため、何度も再審請求の手続きを行う。筋肉隆々で狂暴な栗田は同囚はもとより看守も震え上がったほどの傍若無人な獄中生活を送っていたが、やがて死刑設備がある宮城刑務所に移送されてからは一気に意気消沈。昭和34年10月14日死刑執行。32歳であった。

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

1971年12月から翌72年2月にかけて起きた連合赤軍事件で、殺人・死体遺棄罪などに問われ、1993年に最高裁で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部・永田洋子(ながたひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全とみられるらしい。65歳だった。誕生日は2月8日なので、あと数日の命があれば、66歳。
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永田洋子死刑囚 獄中で死亡

そのくらいの年齢で死ぬ人は珍しくはない。天寿を全うした部類と言えるのだろうかとふと思い、沈んでいた言葉にならない思いを見つめた。私が中学生のころの事件である。彼女は1945年生まれ、事件当時、27歳。アラサーと呼ぶには怒りそうな女子ですなというお年頃。
 永田死刑囚は1984年7月に脳腫瘍と診断され手術を受け、その後も頭痛に悩み、2006年5月に東京八王子医療刑務所に移され、翌05年東京拘置所に戻されたが脳萎縮の状態だったらしい。そのころはいわゆる寝たきりの状態で意識もない状態だったのではないだろうか。
 生まれたのは1945年。菅首相より一つ年上。同世代である。キューピッドの一矢が彼らを射貫かなかったのはヴィーナスの英知であったか偶然だったか、イケメンながらモテそうにもない中産階級臭い菅さんの人徳だったか。一矢は別のところに当たった。
 彼女は妊娠中絶経験などもあるらしいが、あの時代の人であるからな、ふんふんと聞き流す。学生時代にはバセドウ病であったらしいというか、そういうおどろおどろしい印象の写真をよくメディアで私なども見せられたものだった。実際にそうした病気を持っていたかは知らない。
 事件は凄惨極まりないもので、いやがおうにも中学生の耳にもスプラッタな話が流れ込む。だが、事実がなんであったかについては意外と仔細に知らない。ただ、冤罪ということはないだろう。最高裁確定判決では、1971年8月組織離脱の2人を殺害、翌同事件渦中で「総括」として仲間12人を死亡させたとのこと。そして事件では警官も3人殉職した。哀悼。

永田洋子死刑囚の日本赤軍時代

「総括」は「総評」みたいに70年代特有の響きがある。後に吉本隆明が書いたエッセイだったが、市井の人でも彼女みたいにああいう状態に陥ればああなるものだ、というようなコメントがあり、そうだろうなとは思った。ブログなんか書いていると、手ひどい罵倒を投げつけられるが、これが密室であったら私なんぞ総括されてしまうだろう。人間とはそんなものなのだ。
 事件は1972年と見てもよい。地裁判決が出たのはだから10年後。1982年6月。二審高裁は1986年9月。いずれも死刑。事件については「革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤る」と全面的に退られ、永田被告の個人的資質の欠陥などに起因するとした。20年後。1993年3月、最高裁が上告を棄却、死刑が確定した。「多数の殺人等の犯罪を敢行した事案」との判断である。
 当時の読売新聞社説を引っ張り出して読むとこうある。「確かに当時、学園や街頭にベトナム反戦運動が盛り上がったが、大半の学生はしだいに、一部の過激な行動に背を向けていった。大衆的基盤を失った彼らは、ひとりよがりの武闘路線に走り、捜査に追い詰められるように山に逃げ込んだ。自滅するべくして自滅したといえる。」それはそうか、マスコミや政権に逃げ込んで今頃自滅している残党もいそうな感じはするが。
 私が気になっているのは1993年という年である。このころ、オウム事件の惨事は着実に日本社会に胚胎し、連合赤軍事件の本質のようによみがえった。考えてみれば、連合赤軍事件だって六全協前の山村工作隊の余波のようでもあるし、なんのことはない戦前からのファシズムの太くて長い1本の歴史実体のようでもある。
 と書いてみて、ああ、それかと思う。永田洋子死刑囚、死刑執行されずというのはそういうことなのか。死刑を執行していたら、それはまたよみがえるということか。いや、もちろんこれはたちの悪い冗談の部類ではある。
 いずれにせよ死刑は執行されなかった。坂東國男(参照)を含め関係者が多く事件の全容が解明されていないからといった話も聞くが、そうであろうか。確かに、あの事件の全容はわからないと言ってもいいだろうが、死刑の判決に影響するものとは想定されないのではないか。
 1993年というと国連死刑廃止国際条約発効した年で、日本は批准しなかった。あの時代、実に死刑が少なかった。1987年に2人、88年に2人、89年つまり平成元年に1人。そして、その間しばらく死刑は執行されず、永田洋子に死刑が決まった1993年の翌月3月に3人。今顧みると、死刑の少なさは時代でもあったのだが、昭和天皇の死がじんわり恩赦のように覆っていたようにも思えるし、93年の死刑は永田洋子の死刑の決意のようにも見えないことはない。
 死刑は執行されなかった。それらは自民党政権時代の法務大臣の良心に任されていた。その良心をおまえさんはどう思うのだねと問われるなら、それでよかったのではないかと思う。理由はうまく言葉にならない。
 私は大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑には反対論に傾いている。一人の人間が死を決意してそれを引き替えに他者の死を巻き込むことは許せないと私は思うからである。許されざる者は一生獄のなかで生きるがよいと思うし、その生と社会は対話しなければならないと思う。そして、永田さんは長く、日本国民と対話してきた。

永田洋子死刑囚 来歴

永田 洋子(ながた ひろこ、1945年(昭和20年)2月8日 - 2011年(平成23年)2月5日)は、日本のテロリスト、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。リンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に病気のため獄死。

市原市ファミレス組員2人射殺事件 宮城吉英

市原市ファミレス組員2人射殺事件 宮城吉英

暴力団組員で無職宮城吉英被告は、暴力団組長浜崎勝次被告、暴力団幹部男性(4月27日?に拳銃自殺 61歳没)と共謀。2005年4月25日午後8時55分ごろ、千葉県市原市のファミリーレストラン内で、職業不詳・市原市の男性(当時45)と埼玉県草加市に住む建築業者の男性(当時39)を拳銃で数発撃ち殺害した。事件当時、レストラン内には一般客17人と従業員5人がいた。
 宮城被告らと殺害された2人はいずれも暴力団関係者で、2004年4月に宮城被告が起こした傷害事件の慰謝料支払いを巡り、殺害された男性が所属する暴力団から金銭を要求されており、要求に屈すればヤクザとしてのメンツがつぶれると思ったのが動機とされる。宮城被告は5月25日に逮捕された。

宮城吉英 死刑執行

2013年4月26日
市原市ファミレス組員2人射殺事件 暴力団抗争
浜崎勝次 市原市ファミレス組員2人射殺事件
市原市ファミレス組員2人射殺事件 浜崎勝次

浜崎勝次 市原市ファミレス組員2人射殺事件

浜崎勝次 市原市ファミレス組員2人射殺事件

平成17年4月25日、千葉県市原市内のファミリーレストランに暴力団組員の宮城吉英(当時48歳)と仲間の浜崎勝次等3人で乱入。客としてきていた抗争相手の暴力団組員のA(当時45歳)とB(当時39歳)を拳銃で射殺した。この間、一般の客17人と5人の店員がいたが、幸いにも怪我は無かった。だが、客のテーブルに弾が被弾するなど店内はパニック状態に陥った。
20130426105_1304261113_01宮城は、平成16年4月に起こした傷害事件で、殺害されたA等が所属する暴力団から慰謝料を請求されていた。ここで、慰謝料を払うようなことがあれば自分の面子がつぶれると思い犯行に至った。

浜崎勝次 死刑確定

平成17年12月12日千葉地裁は「一般市民に対する危険を顧みず殺害に至った」と断じて宮城に死刑判決。平成18年10月5日東京高裁は、宮城の控訴を棄却。平成21年6月15日最高裁は上告を棄却し宮城に死刑が確定した。また、逃走していた共犯の浜崎は平成19年3月に水戸市内で逮捕され、同年10月26日千葉地裁で死刑判決。平成20年9月26日東京高裁は控訴を棄却。平成23年12月15日最高裁は浜崎の上告を棄却して死刑が確定した。

浜崎勝次 死刑執行

2013年4月26日
市原市ファミレス組員2人射殺事件 暴力団抗争ファミレス2人射殺事件(ファミレスふたりしゃさつじけん)は、2005年4月25日、千葉県市原市のファミリーレストラン店内で暴力団員が起こした拳銃発砲事件。
市原市ファミレス組員2人射殺事件 宮城吉英2005年4月25日午後8時55分ごろ、千葉県市原市のジョナサン五井店内で、暴力団員同士の慰謝料をめぐる交渉がこじれ一方が発砲。相手側の暴力団員の2名が死亡した。事件当時、店内には20名以上の客と店の従業員がおり、発砲した8発の弾丸の一部が周囲のテーブルに着弾した。事件の舞台となったジョナサン五井店はその後閉店しており、建物は解体され跡地にはファミリーマートが立地している。
市原市ファミレス組員2人射殺事件 浜崎勝次主犯の暴力団員A、Bは同年中に逮捕されたが、Cは自殺した。Aは、2009年6月15日に最高裁判所で死刑判決が出ている。Bは、高等裁判所段階で死刑判決が出ており、2011年12月15日、上告が棄却され死刑判決が確定した。2013年4月26日に両人とも死刑が執行された。

死刑執行! 小林薫死刑囚と金川真大死刑囚からの手紙(『創』2013年4月号より)

死刑執行! 小林薫死刑囚と金川真大死刑囚からの手紙(『創』2013年4月号より)

3人のうち2人が知り合いだった

2月21日、最初に電話をかけてきたのは朝日新聞奈良総局の女性記者だった。その日、3人の死刑執行があった、どうやらその一人は小林薫死刑囚らしい、という。
 小林死刑囚とは、彼の死刑が確定する2006年10月まで1年近くにわたって頻繁に接触してきた。判決で認定された殺人を自分は犯していないのだが、もう死にたいから法廷ではいっさい争わないことにする、と言って、一貫して死刑判決を望み、自ら控訴を取り下げた人物だった。
 そんなふうに自ら死刑を望む人間にとって、死刑は究極の刑罰ではないし、彼を本当に裁いたことになるのか疑問だ。そんなコメントをした。
 予想通り、その後、たて続けに読売新聞や毎日新聞からもコメント取材が入った。しかもその直後に、3人のひとりは金川真大死刑囚であることもわかった。
 金川死刑囚とも、私は水戸地裁で死刑判決の前後に接見し、本誌に2回にわたって原稿を書いていた。彼の場合は、そもそも死刑になりたくて無差別殺人事件を犯したのだった。つまり処刑された3人のうち2人までが、自ら死刑を望んだケースで、死刑が本来の刑罰の意味を果たさなかった事例だった。彼らへの刑の執行は、逆に死刑のあり方に問題提起をしているように思えてならなかった。
 2月22日付朝日新聞は「自ら死刑選択一因か」という見出しでその問題を報じていた。つまり、自ら死刑を望んだ2人が同じ日に執行されたのは偶然ではなく、執行の順番を決めるにあたって考慮されたのではないか、という見方だ。
 小林死刑囚については拙著『ドキュメント死刑囚』『生涯編集者』に詳しく書いたのだが、ここで改めて、この2人の死刑囚について書いてみたい。そして改めて死刑について少しでも多くの人に考えてほしいと思う。
 2月21日には、私は新聞のほかにTBS、テレビ朝日、そしてラジオ番組の取材も受けたが、報道で指摘されていたことの一つは、小林死刑囚は自ら控訴を取り下げたのに、なぜ確定後、再審請求を起こしていたのか、という問題だ。その小林死刑囚の行動を「生への執着」と表現する報道もあった。
 実は彼が死刑判決後、控訴審に臨むべきか、控訴を取り下げるべきか、迷っていた時期に、私は相談にのっていた。私のもとへは連日のように手紙が届いたのだが、彼の気持ちは日々揺れ動いていた。そして迷ったあげく、控訴を取り下げ、死刑を確定させてしまったのだった。
 本稿では、小林死刑囚の当時の心境を紹介しながら、なぜ彼が死刑確定後も裁判のやり直しを求めたり、再審請求を行っていたかについて探ってみたい。

死刑を自ら望む一方で本誌手記で心情を吐露

小林薫死刑囚と最初に会ったのは2005年11月27日のことだった。当時、彼は情状鑑定を受けるために、勾留されていた奈良少年刑務所から東京拘置所に移管されており、接見も許可されていた。そこで私が手紙を書いて会いに行ったのである。
 彼が事件を起こしたのは2004年11月17日だった。奈良県で下校途中の小学生の女児をわいせつ目的で自宅に連れ込み、殺害したうえで遺体を遺棄したとされた。悲嘆に暮れる母親に「娘はもらった」というメールを送るという残虐な犯行手口が世間を震撼させた。
 小林死刑囚が逮捕されたのは12月30日だった。裁判は05年4月から奈良地裁で開始されたが、途中で弁護側が情状鑑定を求めたため、一時中断。小林死刑囚は3カ月間、東京拘置所に身柄を移された。
 小林死刑囚の印象は、それまでマスコミが報じていた異常人格というイメージとは違っていた。週刊誌などが報じていた小児性愛者というイメージがあまりにもおどろおどろしいものだったので、ギャップを感じた。
 当時、小林死刑囚は、ある問題で悩み、弁護人を奈良から呼び寄せるなどしていた。それまでの裁判で彼は検察側の主張を認めてきたのだが、実はそれは真実ではない、というのだった。法廷でそれまでの証言を覆して真実を述べるべきかどうか、彼は思い悩んでいたのだった。
 検察側の主張では、小林死刑囚は、女児を自宅に連れ込んだものの、そのまま帰すと自分の犯行が発覚するので、女児が風呂に入っているところを頭を押え込んで湯船に沈めて殺害したとされていた。しかし、彼がその時話したのは、いたずらをするために女児に睡眠剤のハルシオンを大量に飲ませたために、気が付いたら湯船の中で死んでいた、というものだった。
 なぜその主張をそれまでしなかったのかというと、疎外された人生を送っていた小林死刑囚は、自ら死刑を望んでいたからだ。もう生きていても仕方ないので、死刑を選択することで死んでしまいたいと考えていたのだった。
 小学生の時に慕っていた母親を亡くしてからは暴力的な父親に育てられ、小林死刑囚は、万引きで警察沙汰になるなど、すさんだ少年時代を送ってきた。学校ではひどいいじめにあったという。社会に出てからも、常に否定され続け、2004年に女児を死なせた時に、自分はもう死んでしまおうと考えたという。
 逮捕後も裁判でも、彼は捜査側の主張をほとんどそのまま認め、死刑を望むと主張してきた。しかし、一方で、真実を語りたいという思いに駆られ、揺れていたのだという。
 小林死刑囚は、その真実を話そうと決心して、「大事な話がある」と弁護人を奈良から呼び寄せた。そして当時、鑑定にあたった精神科医にも同じ話を打ち明けた。ところが、罪を認めたうえで情状酌量を得るために情状鑑定を求めていたその時点で、裁判を最初からひっくり返すような被告人の話を、弁護人はにわかに信じなかったらしい。彼は失望に囚われ、もう法廷で自分の主張をするのはやめようと考えた。
 2006年2月の手紙に小林死刑囚はこう書いていた。
「奈良少刑へ戻って来た翌日までは、私はまだ『創』に書いたことを法廷で話すつもりでいたのです。でも、どうせ誰にも信じてはもらえないのか、という思いから、それをやめ、『創』に掲載してもらおうと手紙を書き送り、3月号に載せてもらったのです」
 奈良地裁での公判は再開されたが、小林死刑囚はもはや、自分の本心を法廷で述べる意欲を失っていた。そして本誌に「真実」と題する手記を寄せたのだった。

金川真大死刑囚 死刑執行前の面会

笑顔で「解放されてもまた殺人する」「特に謝罪の思いない」 取材に応じた金川死刑囚、最後まで反省なし

「死刑になりたい。生きるのがいやになった」。死刑が執行された金川(かながわ)真大(まさひろ)死刑囚(29)は1審判決前の平成21年6月、水戸拘置支所(水戸市)で産経新聞の取材に応じ、早く死刑に処されたいという心中を吐露。「自殺はどんな方法であれ、自分の体に痛みを加える。そんな勇気がなかったので殺人をした」と話し、最後まで反省の言葉はなかった。
20130221kanagawa022100309_-_-_CI0003接見室での取材に終始満面の笑みで応じた金川死刑囚。遺族や被害者に謝罪はないのか問うと、「痛かったであろうことは常識で考えたら分かるが、特に謝罪や思いはない」と話し、さらに笑顔を見せた。

拘置所内では「日々、殺すことしか考えていない」と断言。「殺すこととは、もし外に出たら、どうやってまた殺しをするかということ。それは死刑になるため。『今解放されたら、また殺人をするか』と問われたら、答えは『します』しかない」と言い切った。

 死刑になりたいと考えるようになった理由は「親が悪いとか教育が悪いとかではない。こう育ったのも運命だ」とした。

 接見終了後には「間にアクリル板があるから記者さんと握手もできない」とつぶやいた金川死刑囚。「こうして拘置所でメディアの方と会うのは暇つぶし。反省したというわけではない」と言い残し、接見室を後にした。
金川真大死刑囚から 届いた最後の手紙
金川真大 土浦連続殺傷事件
死刑囚 リスト 死刑執行リスト

武藤恵喜 名古屋市スナック経営者強殺事件

武藤恵喜 名古屋市スナック経営者強殺事件

201302210221022111380002-p2事件概要 2002年3月14日午前3時頃、無職の武藤恵喜(旧姓)被告は金に困って名古屋市内のスナックに押し入ったが、経営者(当時61)と口論になり、自分の腕やマイクのコードで首を絞めて殺害。現金約8000円を奪った。
 その他、スナック等における無銭飲食10件及びその際犯した売上金の窃盗10件、その他の物品の窃盗2件の余罪がある。

武藤恵喜 名古屋市スナック経営者強殺事件 裁判

一審判決理由で伊藤裁判長は「被害者を確実に死亡させるため、腕で首を絞めた後にマイクのコードを使っており、執拗かつ残忍な犯行。遺族の処罰感情も厳しい」と指摘した。
 死刑を選択しなかった理由として、当初は無銭飲食や窃盗目的で店に入ったことや、店にあったマイクのコードを使っていることを挙げ、計画性はなかったと認めた。また、「無銭飲食の上、店の売上金などを盗む目的で入り、被害者に出入り口扉の鍵を掛けられたことから心理的に追いつめられての犯行との一面を否定できない」などと死刑を回避した。

 死刑を求刑した検察側は「量刑が軽すぎる」と控訴。弁護側は、犯行に計画性はなく女性を静かにさせるためとっさに首を絞めたと主張。逮捕後には贖罪の気持ちを深めており、有期刑が適当として控訴していた。
 名古屋高裁小出裁判長は「偶発的犯行の面も否定できないが、そうした状況は悪事を働こうとしている者が自ら招いた。場合によっては抵抗する店の人を殺害する事態になることは予想できた」と指摘。さらに、被告が1983年に長野県諏訪市で旅館経営者の女性(当時64)の首を電気こたつのコードで絞めて殺害し、現金などを奪ったとして殺人などで懲役15年の判決を受けた点に触れ、「今回と類似する犯行で満期近く服役した後も無銭飲食や窃盗をする生活を続けてきた。起きるべくして起きた事件」とし、判決理由で「弁護側が主張する『反省している。計画的でなかった』などいう情状はいずれも死刑を回避する理由とならない」と述べた。

 最高裁の弁論で、弁護側は「被害者が1人の事件で死刑にするのは許されない」と主張。検察側は「刑事責任は誠に重い」と上告棄却を求めた。
 才口裁判長は「強固な殺意に基づく冷酷な犯行。死刑はやむを得ない」と述べた。「指紋をふき取り、被害者の衣服の一部を脱がせてわいせつ目的に見せ掛けるなどの偽装工作を行った」と指摘。加納被告が過去に、旅館の女性経営者を今回と同様の方法で殺害し、金品を盗むなどした罪で懲役15年に処せられて、服役した前科があることを指摘。「刑事責任は重大で、死刑とした二審の判断は、やむを得ないものとして是認せざるを得ない」と結論づけた。

武藤恵喜の過去

加納恵喜被告は1983年に長野県諏訪市で旅館経営者の女性(当時64)の首を電気こたつのコードで絞めて殺害し、現金などを奪ったとして殺人などで懲役15年の判決を受けている。出所後も盗みなどで逮捕されていた。
 旧姓武藤。

武藤恵喜 名古屋市スナック経営者強殺事件 死刑執行

罪状 強盗殺人、詐欺、窃盗
犯行日時 2002年3月14日
死刑執行 2013年2月21日 62歳没

金川真大 土浦連続殺傷事件

金川真大 土浦連続殺傷事件

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土浦連続殺傷事件概要

土浦市の無職金川真大(かながわまさひろ)被告は、2008年3月19日午前9時15分頃、自宅近く住む無職男性(当時72)方で自転車の空気入れを借り、男性が空気入れを物置に片付けようと背を向けた際、男性の首を文化包丁(刃渡り約18cm)で刺し、失血死させた。金川被告は当初、同居中の妹を標的に選んでいたが、事件当時は不在。続いて出身校である市内の小学校を襲うつもりであったが、当日は卒業式で人が多かったため断念。帰り道、たまたま屋外にいた男性を殺害したもので、男性とは面識がなかった。
 土浦署捜査本部は現場に乗り捨てられていたマウンテンバイクの防犯登録から金川真大被告を割り出し、21日、金川被告を殺人容疑で全国に指名手配した。
 金川真大被告は19〜22日、東京都内のホテルに宿泊し、23日は秋葉原にいた。22日午後0時42分には、荒川沖駅周辺から携帯電話で「早く捕まえてごらん」と110番し、JR取手駅周辺からも110番に無言電話をしていた。茨城県警は170人体制で警戒、荒川沖駅にも改札口周辺とホーム、西口、東口双方のロータリーに私服捜査員各2人が配置された。

金川真大 土浦連続殺傷事件 事件当時24歳

 金川真大被告は23日午前11時5分頃、JR荒川沖駅におり、ニット帽をかぶり、両手に滑り止めのゴム手袋をはめ、サバイバルナイフ(刃渡り約21cm)と文化包丁(同約18cm)を両手に持った。金川被告は改札口から自由通路を東口方面に向かい、男子高校生(当時18)の頸部をサバイバルナイフで刺し、男子高校生(当時16)の左腕を傷つけた。改札口前の自由通路で、サバイバルナイフで私服捜査員の男性(当時29)の額を傷つけ、近くにいた男性(当時50)の頸部を切りつけた。連絡通路を走り、追い抜きざまに女性(当時59)の胸を刺し、すれ違いざまに男性(当時60)の右腕を切りつけた。前に回り込んで女性(当時62)の胸を刺し、ショッピングセンター1階付近で、茨城県阿見町に住む会社員の男性(当時27)の頸部を刺して失血死させた。男子高校生(当時18)と女性(当時62)が重傷、残り5名が軽傷を負った。
 金川被告はその直後、駅西口から約300m離れた交番で土浦署にインターホン電話で「おれが犯人です。早く来てください。犠牲者が増えますよ」と話し、急行した警官が午前11時16分に逮捕した。交番は当時、無人だった。持っていたナイフ等は全て投げだし、抵抗しなかった。
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金川真大 土浦連続殺傷事件 裁判

金川真大被告は逮捕後の調べで、「7、8人殺せば死刑になれると思った。自殺は痛いからいやだった」などと不可解な供述をしていたため、水戸地検は4月28日、金川真大被告の精神鑑定をするため、水戸地裁に鑑定留置を請求。28日から3ヶ月間認められた。鑑定留置請求の理由を水戸地検の糸山隆次次席検事は、「極めて重大な行為なので念のため慎重を期す」と説明した。さらに鑑定からの要請により、1ヶ月間延長された。
 鑑定で専門医は、極度に自分が重要と思い込む「自己愛性人格障害」だが、責任能力に問題はないと診断した。水戸地検は9月1日に起訴した。
 2009年5月1日の初公判で、金川被告は起訴内容の認否を問われて「いや、大丈夫です」と答え、間違いないかと重ねて問われると「はい」と認めた。
 検察側は冒頭陳述で「(被告は)テレビゲームに興じ、家族との会話はほとんどなかった」と指摘。主人公が剣や魔法を駆使するロールプレーイングゲームに熱中する一方、「現実の自分は才能がなく、希望を見いだせず、毎日がつまらないとの思いを強くしていった」とした。その上で「父親が定年退職すれば、ゲームをする時間を削って働かなければならない」と考え、退職が近づいた昨年1月、「つまらない毎日と決別するため、確実かつ苦しまずに死ぬには死刑が一番で、何人もの人間を殺害する必要があると考えた」と動機を説明した。また、包丁などの凶器や変装用のスーツを準備していたことなどから、犯行は計画的だとし、起訴前の精神鑑定結果を踏まえ、金川被告には「完全責任能力がある」と主張した。
 弁護側は「統合失調症の初期の特徴を呈しており、犯行当時、心神喪失もしくは心神耗弱の状態にあった可能性がある」とし、再鑑定を求めた。鈴嶋裁判長は、新たに精神鑑定を行うことを決めた。
 6月3日の第3回公判で、動機を問われた金川被告は「自殺は痛い。人にギロチンのボタンを押してもらう方が楽だから死刑を利用する」と陳述。遺族や被害者に対する謝罪の思いは「感じない」と言い、「おれを殺さなければ、死刑になるまで(人を)殺し続けます」と早期の死刑執行を望む考えを示した。
 9月3日の第6回公判で、裁判所が依頼した精神鑑定の鑑定人、国立精神・神経センターの岡田幸之精神鑑定研究室長が弁護側の証人として出廷。岡田氏は「自己愛性パーソナリティー障害と診断できるが、善悪の判断能力、行為制御能力への影響はない」と述べ、検察側が実施した起訴前の精神鑑定結果と同じく、完全責任能力があるとの見方を示した。弁護側が金川被告が犯行当時、統合失調症の初期症状があったとの主張については「その可能性はまったく否定する」と断じた。証人尋問で、弁護側は死刑になるために他人を殺しても構わないとの金川被告の強い確信が通常の善悪判断に影響を及ぼしたのではないかと質問したのに対し、岡田氏は「被告の能動的な思い込みであって(善悪や行動の判断をゆがめる)妄想ではない」と答えた。
 11月13日の論告求刑で検察側は、「被告はつまらない人生と決別するため死にたいという願望を抱き、見ず知らずの他人の生命を奪って死刑になることで満たそうとした」とし、動機は身勝手、自己中心的で反省の態度も皆無と批判した。さらに「ゲーム感覚で他人の生命を簡単に奪ってしまう被告の性格を矯正することは不可能」と更生の可能性を否定した。そして「被告は単なる人格障害に過ぎない。完全な責任能力があったことは明白。減軽の余地はない」と述べた。
 同日の最終弁論で弁護側は、「心神耗弱の疑いはぬぐいきれない」としたうえで「死刑を求める被告に死刑を与えるなら死刑が刑として機能しない。強盗に金をやるようなものだ。死刑判決はごほうびを与えるようで無意味。被告に必要なのは治療」と無期懲役を求めた。
 裁判長に意見を求められた金川被告は、弁護側の前に用意された長椅子に座ったまま「無駄ですね」と小さな声でつぶやいた。証言台に立つことを拒否し、弁護士に促されると「何も言うことはありません」とはっきり答えた。鈴嶋裁判長は陳述放棄とみなして結審した。
 判決で鈴嶋晋一裁判長は主文を後回しにして判決理由から朗読を始め、「犯行は人格障害によるもので、行為の是非の弁別性、行動制御能力には影響していない。完全な責任能力がある」と認定。さらに「極めて残忍な犯行であり、死刑願望を満たすという動機は強く非難されなければならない。わが国の犯罪史上、まれな重大な事件。反省の態度も全くない。更生の可能性は極めて厳しい」と指摘した。

 弁護側は即日控訴した。同日、金川被告は読売新聞社の接見取材に応じ、近く控訴を取り下げる意向を改めて語った。
 金川被告は笑みを浮かべ、「完全勝利といったところでしょうか。(死刑願望が)変わることはない」と話した。判決は、金川被告を「浅はかな信念に強く執着」と指弾したが、「常識に縛られている側からみてそう見えても仕方ない」と述べ、「後は(死刑)執行までの時間をいかに短くするか。(国が執行に)動かなければ、裁判に訴える」とした。
 金川真大被告は12月28日、水戸拘置支所に控訴取り下げ書を提出し、水戸地裁が受理した。刑事訴訟法によると、上訴を取り下げた被告は再び上訴できず、控訴期限の2010年1月5日午前0時に死刑が確定した。

金川真大 土浦連続殺傷事件 死刑執行

罪状 殺人、殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反
犯行日時 2008年3月19日
死刑執行 2013年2月21日 29歳没
金川真大死刑囚から 届いた最後の手紙

小林薫死刑囚の刑執行 奈良の小1女児誘拐殺人事件

小林薫死刑囚の刑執行 奈良の小1女児誘拐殺人事件

昨年12月の安倍政権誕生で初
20130221kanagawa022100309_-_-_CI0003法務省は21日、平成16(2004)年に奈良市で小学1年の女児を誘拐し、殺害したとして死刑判決が確定した小林薫死刑囚(44)=大阪拘置所=ら3人の刑を同日午前、執行したと発表した。死刑執行は昨年9月以来の約5カ月ぶりで、自民党への政権交代後初めて。未執行の死刑確定囚は134人となった。

死刑執行 無差別殺傷の金川死刑囚も

奈良市の小1女児誘拐殺人事件は、確定判決などによると、小林死刑囚は16年11月17日、奈良市内の路上で帰宅途中の市立小1年の女児=当時(7)=に声をかけ、車に乗せて誘拐。奈良県三郷町の自宅マンション浴室で殺害した後、平群町の道路脇側溝に遺体を遺棄するなどした。

 18年の1審奈良地裁は「被害者が1人であることは死刑を回避する理由にはならない。真剣な反省をしていない上に更生の意欲もなく、人格の矯正可能性は極めて低い」として死刑を選択。弁護側は控訴したが、本人が取り下げ死刑が確定した。

 19年6月、別の弁護人が取り下げ無効を申し立てたが、奈良地裁、大阪高裁、最高裁はいずれも退けた。その後、小林死刑囚本人が再審請求を行ったが、最高裁は21年12月に再審を認めない決定をした。

残る2人は、茨城県土浦市で20年に起きた9人殺傷事件の金川真大(かながわ・まさひろ)死刑囚(29)=東京拘置所囚=と、武藤(現姓加納)恵喜(けいき)死刑囚(62)=名古屋拘置所。

金川死刑囚は茨城県土浦市で20年3月、男性=当時(72)=を刃物で刺して殺害。指名手配中の同月、同市のJR荒川沖駅で通行人の男性1人を殺したほか、7人に重軽傷を負わせた。

 武藤死刑囚は名古屋市中区のスナックで14年、女性経営者=当時(61)=の首絞めて殺害し、現金約8000円を奪うなどした。

死刑執行 谷垣法相「法の精神を無視しない」

谷垣禎一法相は執行後の会見で、判決から6カ月以内に死刑を執行しなければならないとした刑事訴訟法の規定に言及し、「法で定められた期間について、法の精神を無視するわけにはいかない」と話した。

 谷垣法相は就任記者会見で「国民感情や被害者感情からみて死刑制度を設けていることは根拠がある」と述べるなど、死刑執行に前向きな姿勢を示していた。
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