松井秀喜(まついひでき)元プロ野球選手
松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、石川県能美郡根上町(現:能美市)出身の元プロ野球選手。愛称はゴジラ。松井秀喜(まついひでき)幼少期
1974年6月12日に、父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった。3歳で自宅近くの保育園に入園。保育園史上最大の園児と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球をやめてしまった。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた。元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に「尊敬する掛布選手(当時は阪神タイガースファンだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。
松井秀喜(まついひでき)中学時代
中学進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。能美市立根上中学校には野球部はあるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあって)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。 中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。中学時代から衛星放送でメジャーリーグの試合を熱心に見るようになった。当時憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスだった。松井秀喜(まついひでき)高校時代
1990年 星稜高等学校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下智茂からの熱烈な勧誘や、中学野球部の監督やコーチに薦められ、また根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていった。 投手として入部したが、本人曰く「投手はあまり好きではなかった」ため、すぐに野手(一塁手)に転向。その後、三塁手に転向する。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・サード」で出場してヒットを放った。1年生から4番打者を務めたが、(5番は3年生の村松有人だった)夏の甲子園では3打数0安打でチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している。ちなみに、この大会には中村紀洋やイチロー(鈴木一朗)も出場したが、いずれも初戦で敗れている。秋は北信越大会で松商学園に敗れ、選抜出場を逃す。この年には、練習試合で愛工大名電と対戦しており、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしている。 1991年 高校2年夏の甲子園では、初戦(2回戦)沼津市立高戦では松井の走塁で沼津市立高をかき回し接戦に勝利した。3回戦の対竜ヶ崎一戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。秋の明治神宮大会では優勝した。また、高校生選抜チームに2年生としては三沢興一(帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした高木大成・大野倫・萩原誠等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。 1992年 高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに、開幕試合である初戦の対宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。2回戦で堀越のエース山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある。しかし、準々決勝の対天理戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。 夏の甲子園は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、『(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』とコメントしている。 高校通算打率は.450、本塁打は60本(ホームランボールは60個全部は揃っていないという)。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。9月には韓国・ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した。松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている。 ドラフトの目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた。ドラフト前には憧れの球団である阪神に加え、巨人、中日、ダイエーを希望チームとし、その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することをほのめかした。11月21日のドラフト会議では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。 松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄。当時の松井は阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った。その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという。なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。 星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下監督は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、同高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた。松井秀喜(まついひでき)巨人時代
巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛した。テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、という評価だった。高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋は外野手へとコンバートした。長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと生かしてみたいと思い外野手とします」と説明した。松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励した。
松井秀喜(まついひでき)米大リーグ
名門ヤンキース、エンゼルス、アスレチックス、レイズなど名門チームで活躍松井秀喜(まついひでき)現役引退
2012年12月28日(EST27日)午前7時過ぎ(同午後5時過ぎ)からニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを明らかにした。引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、日本球界復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた。自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示している。松井の引退を受け、元同僚、巨人OBなど数多くの球界関係者が談話を発表した。長嶋茂雄氏は「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った。菅義偉官房長官、岸田文雄外相といった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた。
松井の引退は米国でも速報され、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ。ヤンキースのデレク・ジーターは球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ハル・スタインブレナーオーナーも「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた。また、CBSスポーツのジョン・ヘイマン記者は「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し、YESネットワークのジャック・カリー記者は「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した。
巨人オーナー「指導者として歓迎」=プロ野球―松井引退
待望松井ジュニア!夫人おめでた第1子
原監督、松井の将来的“巨人復帰”希望
イチロー松井を評価「長くヤ軍にいた」
ヤンキースは異例の声明発表
長嶋氏がコメント発表 松井は「現代で最高のホームランバッターだった」
松井の父、「可能性ある」=「引退選択」浮上の一部報道受け―米大リーグ
松井秀喜「年内には結論」 所属先未定、近く去就表明へ
松井秀、ついに“引退”か
松井秀喜(引退会見)悲しみよりも祝福を
■12月27日は一時代が終わった日一時代が終わった日――。スポーツ界では使い古されたフレーズであるが、特に日本人である私たちにとって、米国時間の12月27日(日本時間28日)は紛れもなくそう呼ぶにふさわしい1日だったのだろう。
「私、松井秀喜は、本日をもちまして20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたいと思います。20年間、応援をしてくださったファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います」
ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は一言一言かみ締めるように言葉をつないだ。その声は、いつにも増してか細いもの。当初は涙をこらえているのかと思えたが、久々に公式の場に出てきた緊張もあったのだろう。時間が経つにつれて、いつも通りの穏やかな表情に戻っていった。
「チャンスをもらいながら、今季の結果が振るわなかった。これが(引退を決めた)一番大きな要因です。命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが、結果が出なくなったことで命懸けのプレーも終わりを迎えた」
松井秀喜■引退は“椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果
そんな言葉通り、区切りの10年目となった2012年は松井にとって苦しい1年だった。開幕までに所属先が決まらず、4月30日にやっとレイズと契約。5月29日にメジャー昇格も、34試合で打率1割4分7厘、2本塁打、7打点と散々な成績に終わり、7月25日に戦力外通告を受けた。両膝に爆弾を抱える38歳。外野守備にはつけても、そのスキルはメジャーでは最低レベルで、打撃成績もここ3年は下降線をたどる一方だった。これだけ悪い条件が重なれば、次の所属先など簡単に見つかるはずもない。
「野球が好きなんで、プレーしたいという気持ちはあった」と松井本人も未練があったことは認めている。日本復帰は考えられなかったとしても、米国の球団から現実的なオファーがあればおそらくそのチャンスに懸けていたのではないか。日本が生んだ最高の長距離打者の引退は、最終的には、加齢とともに“全米が舞台の椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果と言っていい。
ただそれでも、メジャーリーガーとして、特にヤンキース時代の松井の活躍が見事だったこと、そしてその野球人としての軌跡が素晴らしかったという事実が変わるわけではもちろんない。
松井秀喜■色あせないワールドシリーズの記憶
米国では、キャリアを立派にまっとうして引退する選手には「おめでとう」という言葉を送るもの。今回の松井のケースに関しても、終わりを悲しむより、祝福の言葉の方がふさわしいのではないだろうか。メジャー通算1236試合で打率2割8分2厘、175本塁打、760打点。中でもヤンキース時代の打率2割9分2厘、140本塁打、597打点は立派な成績であり、その貢献度は数字が示す以上に高かった。ニューヨークでは主に4〜6番という重要な打順を任され、勝負強さと献身的な姿勢でスター軍団の中でも存在感を築き上げた。
「パワー自体は“ゴジラ”という愛称で喧伝(けんでん)されたほどではなかった」という声も聞こえてくるが、それでも安定して20〜30本のホームランが期待できる日本人選手は他にいないし、これから先も出てこないかもしれない。
「ヤンキースで7年間もプレーできたことは最高の出来事だったし、最高に幸せな日々でした。初めてヤンキースタジアムでプレーしたこと、最後にプレーした日のことは、一生忘れることなく心の中にあり続けると思います」
そう感じているのは松井だけでなく、ニューヨークのファンも同じだろう。
伝統の球場で初めてプレーした03年4月8日のゲームでは、松井は右中間への満塁ホームランを放った。最後となった09年ワールドシリーズ第6戦では、ヤンキースを9年ぶりの世界一に導き、自らのシリーズMVPも決定付ける3安打、1本塁打、6打点。以降のヤンキースは世界一から見放されていることもあり、松井が打率6割1分5厘、3本塁打と爆発したワールドシリーズの記憶はニューヨーカーの中でいまだに鮮明である。
松井秀喜■MLBとヤンキースを身近にしてくれた
ここで少しだけ個人的な話をさせてもらえば、筆者はニューヨークに住んでいてもヤンキースファンではないし、09年の世界一の際にも特別に歓喜したわけではない。公平さを保つために選手に必要以上に近づかないというポリシーもあって、松井とも親しかったわけではまったくない。それでも、この街で短くない時間を過ごしてきた人間の1人として、その存在をリスペクトしているし、感謝もしている。
松井入団直後のニューヨークには、おかげで日々の楽しみが増えたというファンが山ほどいたし、スタジアムにも以前にも増して日本人ファンが見受けられるようになった。松井の活躍はビジネス面でも多くの人にさまざまな影響を及ぼし、その恩恵を受けた中には筆者も含まれるのだろう。
そんな人々の見守る前で、松井は故障時以外は休むこともなく、黙々とグラウンドに立ち続けた。勝っても負けても、打っても打たなくても、同じように記者たちの質問に答え続けた。そんな不器用なやり方で、MLBとヤンキースを私たちにとってより身近なものにしてくれたのだ。
■これから先も盛大なカーテンコールを
「1999年のオフ、ヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思い、米国に行きました。ヤンキースタジアムで試合を見たことが運命のような気がします。3年後にFAになるのは分かっていたので、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました」現役時代は当たり障りのない発言が多かった松井だが、スタートの地・ニューヨークでの引退会見でのそんなコメントは胸に響いた。
自身が“運命”と呼んだその日以降も、日本で成績を残し続けることでヤンキースから認められ、希望通りの道を切り開いた。それは本当に運命だったのか、偶然だったのか、あるいは松井らしい努力の結果だったのか。その答えはどうあれ、こうして引退の時を迎えた今、10年前にそんなシナリオが実現したことにあらためて感謝したい。
“ゴジラ”が上陸したことは、ニューヨークで暮らす人々にとっても喜びだった。日本人にとっても、米国人にとってもそれは同じだった。だからこそ、これから先も、何年の時が経とうと、この街に戻ってくるたびに、松井は盛大なカーテンコールを浴び続けるに違いない。