パナソニックはなぜ「プラズマ」に失敗したのか?
「昭和の3大馬鹿査定」という言葉がある。政府が昭和の時代に行なった役に立たない巨額投資を指すもので、様々なバージョンがあるが、「戦艦大和、青函トンネル、伊勢湾干拓」が最もよく挙げられる。旧大蔵省の田谷廣明主計官(当時)が整備新幹線への予算付けを求める自民党議員に「これを認めれば3大馬鹿査定と同じになる」と語ったのが元祖といわれる。これにならって、民間企業が平成の時代に行なった失敗投資を3件挙げれば間違いなく入るのが、パナソニックのプラズマテレビへの投資だろう。「平成の3大馬鹿投資」である。パナソニックは大阪府茨木市と兵庫県尼崎市の2カ所に、建屋数で言えば延べ5工場を建設した。最直近の投資となった尼崎第3工場には2800億円 を投じており、総額では、プラズマテレビの生産体制構築に6000億円以上を費やした。すでに5工場のうち稼働しているのは尼崎第2工場のみとなっており、最新鋭の第3工場は生産開始からわずか1年半で操業停止に追い込まれている。
■「中興の祖」の決断
まさに「壮大な失敗」としか言いようがないだろう。失敗の要因はいくつもあるだろうが、最も重大な要因は「薄型テレビの技術の方向性を見誤った」ことである。
薄型テレビには現在、液晶とプラズマの大きく2つの技術の流れがある。液晶はカラーフィルターの後ろから光を投射し、液晶が光を透過させるか、させないかで、光の3原色をコントロールしてカラー画像を映し出す。プラズマは3原色の蛍光体が自ら発光し、発光するタイミングをコントロールすることで画像を作り出す。バックライトがあるか、自発光かが大きな違いだ。
薄型テレビが普及段階に突入し始めた2003年ころには、40インチ半ばより大きな画面サイズではコスト的、画質的にプラズマが優位、それより小さいサイズでは液晶が優位と言われてきた。液晶パネルに使うガラスは液晶を2枚のガラスの間に挟み込むため、プラズマパネルよりも薄く、強度の面からマザーガラスのサイズを大きくするのが難しいと考えられていたからだ。しかも大型化したパネルでは液晶は映像の 奥行き感が出しにくい、との映像専門家の見方もあった。
こうした「サイズによる棲み分け論」に 立脚し、液晶には目もくれず、プラズマに突き進んだのがパナソニックだった。
当初、液晶はスポーツやF1レースなど高速の動きへの追随性が悪いという問題もあった。パナソニック社内には経営トップから中堅まで強いプラズマ信仰があり、「液晶の方が技術的に優位で、将来性がある」とはとても言い出せる空気ではなかった。さらに大胆な構造改革で業績をV字回復させ、「中興の祖」とまで呼ばれた中村邦夫社長(当時)が03年にプラズマ路線を最終的に決断したことから「平成の3大馬鹿投資」の運命が決した。
■ 見誤った「市場の情勢」
実は茨木工場の増設、尼崎工場の新設に動いていた当時から、社内の技術者や外部の専門家からは、「プラズマ1本勝負」に疑問を呈する声があった。すでにシャープが04年1月に亀山工場(三重県)で第6世代の液晶パネル工場を稼働させ、液晶テレビの大型化、画質改善にも技術的にメドが立ち始めていたからだ。プロの映像技術者の目にはプラズマの画質の良さがわかっても、家電量販店の店頭でふたつを見比べれば、素人には液晶の高精細度と発色の鮮やかさ、明るい部屋での視認性のよさが目立つ。一般の消費者の多くは、同じ値段ならばプラズマではなく液晶を買うのは当然だった。そうした市場の情勢を客観的にみることができなかった点に、パナソニックのプラズマ敗北の第1歩があった。
当初こそ、プラズマの売れ行きは伸び、利益もしっかりと出ていた。05年3月期のプラズマテレビの売上高は、前年度比1.8倍の2300億円 。37インチ以上の大型薄型テレビでは、9割をプラズマが占めた。05年2月に4半期決算の発表に出て来た担当役員などが、
「プラズマテレビを表すPDPは、パワフル・デジタル・プロフィットの略ではないか」
と景気のいい冗談を飛ばすほど鼻息が荒かった。実際、数字を見る限り、パナソニック経営陣が感覚を狂わせたのも無理からぬ点がないではない。少なくとも、この時期はまだ薄型テレビ戦争の緒戦に過ぎず、市場の膨張のなかでプラズマが液晶に遅れをとっている状況はみえていなかったのだ。
■3つの誤算
振り返ると、パナソニックにはおそらく3つの誤算があった。第1は、液晶パネルの生産プロセスの急激な進化、すなわちマザーガラスの大型化のスピードと生産歩留まりの向上(不良品率の低下)だ。液晶陣営のトップを走るシャープが強気の戦略で亀山工場の増設を進め、第8世代となる第2工場を06年8月に立ち上げた。これで大型液晶パネルのコストが大きく下がり、「40インチ超の大型はプラズマ」というパナソニックの勝利の方程式がほころびを見せ始めた。
平行して、韓国のサムスン電子がシャープ追撃で大型投資を重ね、ライバルだったソニーをサムスン主導の液晶パネルの生産合弁に引きずり込んだ。ソニーが持っていた液晶関係の技術を吸引するとともに、大型工場から出る液晶パネルの有力な販売先を確保した。
今にして思えば、液晶パネルの自社生産をあきらめ、サムスンとの合弁からの調達という路線に舵を切ったソニーこそ、サムスンの液晶事業を育成するのに大きく貢献し、ソニー自らも含めた日本の薄型テレビメーカーを窮地に陥らせる遠因をつくったといっても過言ではない。パナソニックのプラズマは、サムスンが打ち落とす日本メーカーの最初のターゲットとなったのだ。
第2の誤算は、韓国、台湾勢の急激な台頭だ。サムスン、LGエレクトロニクスの韓国勢、友達光電(AUO)、奇美電子(現在の群創光電)などの台湾メーカーが液晶パネルの大増産を進め、液晶陣営は戦国時代となった。そうした激しい競争によって液晶パネルの価格は急落し、プラズマに対して価格優位性がはっきりし始めた。同時に、台湾では液晶テレビを受託生産するメーカーが台頭。米市場ではVIZIOなど、工場を持たずに委託生産だけでシェアを高めるブランドが現れた。薄型テレビはどこのメーカーの商品を買っても大差はなく、価格だけの競争にシフトし始めたのである。亀山工場の初期に「亀山ブランド」で液晶テレビを世界に売り出したシャープの戦略が通用しなくなるとともに、パナソニック、ソニーなども沈んだ。
さらに第3の誤算は、プラズマ陣営の崩壊だ。日本でプラズマテレビをつくっていたメーカーは、パナソニック以外に日立製作所(パネルは富士通との合弁)とパイオニアがあった。技術的にはプラズマの基本特許を多く持つ富士通の技術を引く日立、独自技術で白黒の高いコントラストを出すことに成功し、「世界で最も美しい薄型パネル」とまで称されたパイオニアがパナソニックに勝るとも劣らないプラズマテレビを販売していたが、販売力の弱さから不振に陥り、08年に日立、09年にパイオニアが撤退。国内ではパナソニックが唯一のプラズマメーカーになってしまった。プラズマ向けの部材を供給する多数のメーカーはリスクを感じ始め、新規の技術開発や生産体制の強化などから手を抜き始めた。プラズマ生産のピラミッドが次第に崩れ始めたわけである。
■歴代トップの責任
プラズマをつくり続けるパナソニックの姿は、1980年代にビデオレコーダーの規格競争に敗れ、VHS全盛のなかで細々とベータのビデオをつくり続けたソニーの姿に通じるものがある。今、パナソニックは日立から買収した液晶パネル技術(IPSα)を生産し、テレビ事業の主軸にしているが、それはソニーがベータを捨ててVHSに転じた姿に重なる。
つまるところ、パナソニックのプラズマ敗戦は、思い込みで技術の方向性を見誤り、グローバル市場での販売力が追いつかないほどの勢いで生産能力を拡大した中村、大坪文雄の2代のトップと、それを支える立場にあった津賀一宏現社長に責任の大半があるのは当然だ。だが、すでに巨額の退職金を得て相談役に退いている中村氏と特別顧問の大坪氏 、それに現社長の津賀氏らの責任は、今も不問のままである。
尼崎工場は今後、売却または取り壊しになり、6000億円超の投資は雲散霧消する。こうした過ちを繰り返さないためにも、歴代経営トップへの責任追及は徹底すべきだろう。






