1000億円の経済効果、「多言語対応」元年へ
2014年も、残すところあと1カ月半弱――来年はどんな年になるのか、そろそろ気になり始める頃だろう。そこで、日本を代表する3大シンクタンクであるみずほ総合研究所、三菱UFJリサーチ&コンサルティング、野村総合研究所に、6回にわたって、2015年の日本を予測してもらう。第1回を執筆するのは、『経済がわかる論点50 2015』を上梓したみずほ総合研究所のエコノミスト、坂中弥生氏。オリンピックに湧く「語学ビジネス」の経済効果を大胆に予測する。
まるで陸続きの国のように、アジアだけではなくアメリカ、ヨーロッパからの外国人旅行者が歩いているのが当たり前。標識や説明書、あるいはお店のメニューなどが複数の言語で書かれている。そんな状況が、数年後には日本の街中に訪れるかもしれない。
実際、小泉政権下の2003年にビジット・ジャパン事業(訪日外国人旅行者の増加を目的とした訪日プロモーション事業)が開始されてから、訪日外客数は増加ペースを急速に高めてきた。
ビジット・ジャパン事業開始後10周年を迎えた2013年は、「観光立国実現に向けたアクション・プログラム」(2013年6月)が策定され、東南アジア(タイ・マレーシア等)を対象にビザ発給要件が緩和されたことに加えて、円安や富士山の世界遺産登録などが追い風となり、訪日外客数は1036万人(前年比+24.0%)と大幅に増加した。
「日本再興戦略」(2013年6月)におけるKPI(政策群ごとに達成すべき成果目標)は、「2013年に訪日外国人旅行者数1000万人を達成し、2030年には3000万人を超えることを目指す」とされており、その一部を達成したことになる。2014年入り後は増加ペースがさらに加速しており、2014年の訪日外客数は1300万人も視野に入る水準である。先に述べたことが絵空事ではない根拠がここに見られる。
こうした訪日外国人の増加によりもたらされるものは、日本の街の雰囲気が変わるということだけではない。「訪日外国人の消費動向平成25年年次報告書」(日本政府観光局)を見ると、2013年の訪日外国人旅行消費額は1兆4167億円に上り、内訳は宿泊料金が約3割、買い物代が約3割、飲食費が約2割となっている。こういった数字からも、訪日外国人による訪問地での消費に期待がかかる。ここが訪日外国人を増やし、観光を振興することの一番の狙いであろう。
そのためには、国を挙げて、訪日外国人を受け入れる体制を整備しなければならない。そのうえで最も必要性に迫られるものは外国語、それも英語以外の言語への対応、つまり多言語に対する対応である。
■ 英語の対応すら十分ではない日本の現状
しかしながら、訪日外国人の数は増加しているにもかかわらず、訪日外国人の「言葉が通じない」「案内がわからない」といった不満や不安を解消するには至っていないのが現状だ。
日本政府観光局が2013年3月に公表した「平成24年度TIC(ツーリスト・インフォメーション・センター)利用外国人旅行者調査報告書」によれば、外国人旅行者が日本滞在中に不便と感じた点(記述式)として挙げられたものは、主に「言葉(英語が通じない・英語の標識や英語の説明表示が少ない等)」「交通(料金やルートがわかりにくい・英語の案内表示が少ない等)」「通信(Wi-Fi設備が少ない等)」であった。
では、日本はこれまで何もしてこなかったのだろうか。実は、訪日外国人を増やし観光を振興する上で、多言語対応を進めることの必要性が指摘されて久しい。
たとえば、東京都では、2007年に「国内外旅行者のためのわかりやすい歩行者用案内サイン標準化指針」を策定し、4言語(日本語・英語・中国語・韓国語)に対応した観光案内標識の設置や、東京都観光ボランティアによる7言語(英語・中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・スペイン語)での都内主要観光ルート案内サービスなどを行っている。
しかし、現実は前述の報告書からもわかるように、観光立国日本を目指しながらも、英語の対応すら十分ではないという状況である。
■ オリンピックがきっかけで個人から多言語対応が進む
このような状況を脱するきっかけとなったのが、2013年の東京オリンピックの開催決定だ。東京都は、開催決定を契機に、2014年3月に関係省庁や鉄道、業界団体など計56機関が参加する「2020年オリンピック・パラリンピック大会に向けた多言語対応協議会」を設置し、わかりやすい表記の整備を進めている。
具体的には、英語およびピクトグラム(絵文字)での対応を基本としながら、必要に応じて中国語・韓国語などほかの言語も含めて多言語化を実現する方針だ。このような試みからわかるように、企業や行政による多言語対応は、東京オリンピック開催が決定したことにより大きく加速することが期待される。
企業や行政が動くことでもたらされる効果は大きい。しかしながら、多言語対応の進展という観点でいえば、個人レベルでより早く顕著な動きが見られそうだ。報道によると、オリンピックボランティアとして8万人以上を募る予定だという。その役割は外国人観光客のための通訳や道案内のほか、会場の警備や輸送車両の運転、医療など多岐にわたる。
このようなボランティア募集情報に関心を持つことで語学学習意欲が喚起され、個人レベルでの多言語対応が進むことに期待がかかる。オリンピック開催まで5年以上の期間があることから、そこに照準を合わせて今から外国語を学習しよう、という趣旨の広告も見られるようになってきた。
実際、すでに効果は数字に表れた。外国語会話教室の受講者数の推移を見ると、2009年2月以降、前年同月比マイナスが続いていたが、開催が決定した2013年9月から前年同月比プラスに転じている。具体的には、2013年8月の受講者数が前年同月比▲1.4%だったが、2013年9月〜2014年5月の受講者数が平均で前年同月比+1.4%を示している。東京オリンピック開催決定は、語学学校市場の活性化をもたらしているようである。
■ 交通機関の多言語対応、経済効果は85億円
前述のように、足元ですでに、外国語会話教室の受講者数が増えるといった個人レベルでの多言語対応の進展が見られた。このようなオリンピック開催決定により促進される、企業や個人の多言語対応の経済効果は、どの程度になるだろうか。みずほ総合研究所では、企業レベルの具体例として交通機関の多言語対応による経済効果について、および個人レベルの対応の具体例として語学学校市場の拡大による経済効果について、それぞれの規模を試算した。
はじめに、交通機関の多言語対応による経済効果を検討するが、ここでは、移動手段として利用されるタクシー・鉄道・バスを対象としている。
タクシーの多言語対応としては、英語が話せるタクシーの配送手配などのシステムを盛り込んだ多機能型カーナビの導入が期待される。ただし、同機は高額であるため、すべてのタクシーへ導入されることは現実的ではない。
そこで、東京都内のタクシー会社のうち、大手4社は多機能型カーナビを導入し、大手4社以外は比較的安価に利用できるタブレット端末(翻訳機能の利用など)を整備することで多言語に対応すると考えた。鉄道については、駅構内の案内板におけるピクトグラム・多言語表記の拡大のほか、駅員の訪日外国人への案内を補助するためのタブレット端末の配置、駅員の負担軽減や対応能力増強を目的とした無人端末(道案内・乗換案内など)の導入が進むと考えた。また、バスについては、車内表示が多言語表記へ変更されることを想定した。
以上を基に一定の仮定を置いて試算すると、経済効果はタクシーで33億円、鉄道で7億円、バスで45億円、合計で85億円となった。この試算は東京都内を主な対象地域としているが、それ以外の地域においても観光振興のための多言語対応が促進されれば、経済効果はさらに大きくなる可能性がある。
■ 高まる語学熱、経済効果はなんと900億円以上!
次に、個人の多言語対応が進むことに伴う経済効果として、語学学校受講者の増加によって語学学校市場が拡大する効果を試算する。
語学学校受講者数の増加ペースについては、2014年度以降、毎年2.8%と仮定している。前述したように、オリンピック開催決定後に語学学校受講者数が減少トレンドから増加トレンドへ変化したことから、このトレンドの変化幅(年率2.8%ポイント)をオリンピック開催決定による押し上げ効果と考えた。また、1人当たり1カ月受講料は、「特定サービス産業動態統計調査」(経済産業省)における1受講者当たりの売上高を参考に1万7000円と仮定している。
以上の仮定の基で試算した結果、2019年度までの累計の経済効果は、受講者数が13万人の増加、語学学校の売上高が916億円の増加となった。「特定サービス産業実態調査」(経済産業省)における外国語会話教授業務の年間売上高が1234億円、受講者数が78万人(2010年)であることを考えると、ここで試算した今後6年間で現れる経済効果は、業界にとって決して小さくないだろう。
交通機関の多言語対応と語学学校の売上増、これら2つの経済効果を合わせただけで、なんと1001億円の経済効果が期待できる。
■ 東京オリンピックがもたらす大きなレガシー(遺産)
今回は、交通機関の多言語対応が進むこと、語学学校市場の拡大を直接的な経済効果として取り上げた。それ以外にも、商業施設や宿泊施設などで多言語対応が進むと考えられるほか、訪日外国人の利便性向上のためのATMや外貨両替機の設置、翻訳や音声案内機能を有するロボット実用化の推進など、さまざまな場面でビジネスチャンスが生まれてくることが予想される。
また、多言語対応の促進によって、外国人観光客を継続的に呼び込むことや人材の国際化が促進される効果は、日本の将来に向けて大きな遺産となると考えられる。
特に、東京オリンピック開催をきっかけに高まることが期待される語学学習意欲を、若年層を中心とした日本人の英語リテラシー向上につなげることができれば、国際化が進むビジネスの世界で日本企業が競争力を保つうえでの支えとなりうる。
企業の海外展開が進む中で、世界で活躍する「グローバル人材」の必要性は高まっている。そして、ビジネスパーソンの昇進の要件に「外国語が話せること」が求められる企業や、社内公用語が外国語である企業が珍しくない時代が迫っている。多言語対応の促進が日本経済や日本企業の将来にとって重要な意味を持つことは間違いない。