「原発は絶対安全とうそをついてきた」 東電副社長・石崎芳行さんの悔恨

11月29日の日曜日、福島県南相馬市で「東京福島復興本社って何してるんですか」と題した小さな集まりがありました。原発事故で心身ともに傷ついた市民を元気づけようと、さまざまユニークな活動をしている番場さち子さん(ベテランママの会代表)が企画。番場さん自身が「復興本社が何をする会社なのか全く分からない」と感じたのをきっかけに、東京電力代表執行役副社長で福島復興本社の代表を務める石崎芳行さん(62歳)に来てもらい、東電はいま福島で何をやっているのか、原発はこの先どうなるのか、分からないことをみんなで何でも質問しちゃおうとなりました。元ラジオ福島で今はフリーの大和田新アナウンサー(60歳)が司会を務め、津波で両親と2人の子を亡くし、行方不明者捜索グループ「福興浜団」を率いる南相馬市・萱浜の上野敬幸(たかゆき)さん(42歳)が石崎さんの隣に座りました。

東電福島復興本社は2013年1月に発足しました。福島県内に約2千人の社員がいて、賠償業務や避難区域の除染、住民帰還に向けた住宅や墓地の清掃活動などに従事しています。メルトダウンした第1原発の収束作業と汚染水対策は別にある専門の社内組織「廃炉推進カンパニー」が受け持っているので、復興本社は直接関与しません。それ以外の福島の復興にまつわる営みには、事故を起こした当事者ですから大小いろいろな反発もある中、許される限り、できる限りかかわっていこうという組織。そのリーダーが石崎さんです。

石崎さんがマイクを持つと、問わず語りの独白になりました。

1953(昭和28)年生まれの鉄腕アトム世代です。大学卒業後、電気をつくって送り届けることで世の中を良くしたい、社会のためになりたいと東電に入社しました。事務系社員でしたが震災前の2010年まで3年間、福島第2原発の所長を務めました。見学に訪れた地元住民の皆さんに「原発は絶対に安全です。絶対に事故は起きません。地震の時は原発の構内へ避難してください」と言っていました。私自身、そう信じていました。非常用電源までも失うことへの想像力に欠けていたんです。結果的に私は地元の皆さんに原発は絶対安全だと、うそをついてきたのです。痛恨の極みです。今それを恥じています。

2011年3月11日は東京の本店で立地地域部長をしていました。東電の発電所がある地域と会社をつなぐ役割の部署です。お客さんと会っているとき、とんでもない激しい揺れが起きました。本店内にできた災害対策本部の一員になり、刻々と事態が悪くなっていく第1原発の状況をハラハラと見ているしかありませんでした。その後、当時の社長に付いて各地の避難所へおわびに回りました。寒い体育館で、毛布を敷いて寝転んでいる人たちの中に、第2原発所長時代にお付き合いしていた楢葉町や富岡町の方々がたくさんいました。「絶対安全だと言って、だましやがったな」。突き刺さってくるような怒りの目が忘れられません。

この事故から私は逃れられないと覚悟を決めました。原発所長として勤務する中、浜通りの気候風土が気に入り、こんなにいいところはない、いつか必ず住むぞと、ついのすみかを探す拠点にする賃貸アパートの内覧を3月12日にやる予定でした。その夢は今も捨てていません。今は1年契約の副社長ですが、首になっても死ぬまで福島の皆さんとお付き合いするつもりです。母も会津の出身。これが私の運命だと思っています。

石崎さんの隣に座った上野さんにとって、東電は憎しみの対象でしかありません。原発事故で避難が優先され、周辺の津波被災地は放置されました。がれきとぬかるみの中、上野さんは消防団の仲間と一緒に家族や地区の不明者を懸命に捜し続け、1体1体を収容しました。今も父と当時3歳の長男が見つかりません。第3子をお腹に宿していた妻は茨城に避難し、遺体で見つかった長女の火葬に立ち会えませんでした。わが娘の骨を拾うこともできなかったのです。原発事故が起きたからでした。

怒りで全身がささくれ立っていた上野さんはある日、市役所のそばで被災者対応をしていた東電の男性社員にぶちまけました。「おまえらのせいで、どれだけひどい目に遭ったと思っているんだ。犠牲者と家族に謝れ! 原発20キロ圏で不明者を捜せ!」

その社員は上野さん宅がある萱浜地区に毎朝姿を見せるようになりました。あちこちに設けられた祭壇に線香を上げ、手を合わせて回るのです。上野さんは遠くからずっと黙って見ていました。社員は毎日毎日来ました。そのうち上野さんの気持ちが少し変化します。東電のことは憎くて憎くて仕方がない。でも人を憎んでいるわけじゃないなと。

2年後の2013年秋、大和田アナの仲立ちで上野さん宅を石崎さんが初めて謝罪に訪れました。石崎さんが差し出した名刺を上野さんは即座に投げ捨てました。「先にすることがあるだろう」。床に頭をこすりつけて石崎さんが土下座しました。飢えたオオカミのような目をした上野さんは、すぐにでも殴りかからんばかりの勢いで拳と腕をぶるぶる震わせながら、たまりにたまった怒りをぶつけました。約2時間、石崎さんはずっと正座して聞きました。最後に上野さんは言いました。「石崎さんがこれからどう生きていくかを、俺は見ています」。

いま上野さんは石崎さんを慕い、いろいろ頼み事をする仲になりました。第1原発に近い双葉町や大熊町での不明者捜索には東電社員も手伝いに入っています。萱浜地区で春や夏に菜の花畑の迷路や花火打ち上げのイベントをする際は、社員が駐車場案内係などの裏方仕事を買って出ます。

会場にもマイクが回りました。富岡町からいわき市に避難した高齢の男性が「復興とは元通りに戻ること。そういう意味で、福島に真の復興はない。元通りに戻ることはないのだから」と嘆きました。「賠償で誠意が足りない」「事故の教訓をどのように伝えるのか」との声も上がりました。

石崎さんは「再稼働うんぬんを私が語る資格はありませんが、福島の教訓を世界に伝えることが一つの使命だと思っています。原発は総合技術産業です。危険なものを人間の力、科学の力でコントロールし、社会のために使う。安全を維持するには人間性や心意気までもが問われます。私自身は科学の力を信じたい。太陽光や風力、地熱などありとあらゆるエネルギーを駆使しつつ、原子力も一つのエネルギーであると言わざるを得ない」と電力会社の現役幹部としての立場も率直に語りました。

何か答えが出るわけでもありません。定刻が来て、会はお開きとなりました。青い作業服に「復興本社代表」の腕章を左腕に巻いたいつもの姿の石崎さんは、来場した1人1人に礼を言い、出口で見送りました。福島にいる間は常にこの格好で、土日も原発周辺町村のさまざまな催しに顔を出しています。この日も会が終わった後、番場さんが主宰する学習塾に場を移して若い人たちといつまでも話し込んでいました。

「こうして直接話を聞くことで、地域の実態を知り、私たちとしてやるべきことが見えてきます。課題はたくさん、ありすぎるほどあります。東電は二度と許されることはないと思いますが、皆さんが生活を取り戻すための仲間として、復興本社の社員をお認めいただきたい。福島にしっかり根を下ろして、精いっぱいやるだけです」。合気道をたしなむ人らしい姿勢の良さと、力みのない穏やかなたたずまい。原発はもうなくしたほうがいい思う私と考えや立場は違いますが、人としてのありようは人生の先輩でもあり大いに尊敬しています。

東電イコール悪と断罪するのは簡単です。ただ、津波と原発事故から5年がたとうとしている現場には、こうした人の交わりと息遣いがあります。人の心こそが、きょうより少しでも良いあしたを築いていくのだと私は確信しています。